すと、行手に方つて蓊乎《こんもり》として木立が見え、大きい白いペンキ塗の建物も見えた。間もなく其建物の前を過ぎて、汽車は札幌驛に着いた。
 乘客の大半は此處で降りた。私も小形の鞄一つを下げて乘降庭《プラツトホーム》に立つと、二歳になる女の兒を抱いた、背の高い立見君の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに來て呉れた。
『君の家は近いね?』
『近い? どうして知つてるね?』
『子供を抱いて來てるぢやないか。』
 改札口から廣場に出ると、私は一寸停つて見たい樣に思つた。道幅の莫迦に廣い停車場通りの、兩側のアカシアの街※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《なみき》は、蕭條たる秋雨に遠く/\煙つてゐる。其下を往來する人の歩みは皆靜かだ。男も女もしめやかな戀を抱いて歩いてる樣に見える、蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝《あたり》の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。
『この逵《とほり》は僕等がアカシヤ街《がい》と呼ぶのだ。彼處に大きい煉瓦造りが見える。あれは五番館といふのだ。………奈何《どう》だ、氣に入らないかね?』
『好い! 何時までも住んでゐたい――』
 實際私は然う思つた。
 立見君の宿は北七條の西何丁目かにあつた。古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を營んでゐる林といふ寡婦《やもめ》の家に室借りをしてゐた。立見君は其室を『猫箱』と呼んでゐた。臺所の後の、以前は物置だつたらしい四疊半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭が閊へて立てなかつた。其狹い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。林務課の事業手といふ安腰辨の立見君は、細君と女兒と三人で其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《そんな》室にゐ乍ら、時々藤村調の新體詩などを作つてゐた。机の上には英吉利人の古い詩集が二三册、舊新約全書、それから、今は忘れて讀めなくなったと言ふ獨逸文の宗教史――これらは皆、何かしら立見君の一生に忘れ難い記念があるのだらう――などが載つてゐた。
 私もその家に下宿する事になつた。尤も空間は無かつたから、停車場に迎へに來て呉れたも一人の方の友人――目形君――と同室する事にしたのだ。


 宿の内儀《かみさん》は既う四十位の、亡夫は道廳で可也《かなり》な役を勤めた人といふだけに、品のある、氣の確乎《しつかり》した、言葉に西國の訛りのある人であつた。娘が二人、妹の方はまだ十三で、背のヒョロ高い、愛嬌のない寂しい顏をしてゐる癖に、思ふ事は何でも言ふといつた樣な淡白《きさく》な質で、時々間違つた事を喋つては衆《みんな》に笑はれて、ケロリとしてゐる兒であつた。
 姉は眞佐子と言つた。その年の春、さる外國人の建ててゐる女學校を卒業したとかで、體はまだ充分發育してゐない樣に見えた。妹とは肖《に》ても肖つかぬ丸顏の、色の白い、何處と言つて美しい點《ところ》はないが、少し藪睨みの氣味なのと片笑靨のあるのとに人好きのする表情があつた。女學校出とは思はれぬ樣な温雅《しとや》かな娘で、絶え/″\な聲を出して讃美歌を歌つてゐる事などがあつた。學校では大分宗教的な教育を享けたらしい。母親は、妹の方をば時々お轉婆だ/\と言つてゐたが、姉には一言も小言を言はなかつた。
 その外に遠い親戚だという眇目《すがめ》な男がゐた。警察の小使をした事があるとかで、夜分などは『現行警察法』といふ古い本を繙いてゐる事があつた。その男が内儀さんの片腕になつて家事萬端立働いてゐて、娘の眞佐子はチョイ/\手傳ふ位に過ぎなかつた。何でも母親の心にしては、末の手頼《たより》にしてゐる娘を下宿屋の娘らしくは育てたくなかつたのであらう。素人屋によくある例で、我々も食事の時は一同茶の間に出て食卓を圍んで食ふことになつてゐたが、内儀はその時も成るべく娘には用をさせなかつた。
 或朝、私が何か搜す物があつて鞄の中を調べてゐると、まだ使はない繪葉書が一枚出た。青草の中に罌粟《けし》らしい花が澤山咲き亂れてゐる、油繪まがひの繪であつた。不圖、其處へ妹娘の民子が入つて來て、
『マア、綺麗な…………』
と言つて覗き込む。
『上げませうか?』
『可《よ》くつて?』
 手にとつて嬉しさうにして見てゐたが、
『これ、何の花?』
『罌粟《けし》。』
『恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》花、いつか姉ちやんも畫《か》いた事あつてよ。』
 すると、其日の晝飯の時だ。私は例の如く茶の間に行つて同宿の人と一緒に飯を食つてゐると、風邪の氣味だといつて學校を休んで、咽喉に眞綿を捲いてゐる民子が窓側で幅の廣い橄欖《オリーブ》色の飾紐《リボン》を弄つてゐる。それを見付けた母親は、
『民イちやん、貴女何ですそれ、また姉さん
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