載つてゐた。
私もその家に下宿する事になつた。尤も明間《あきま》は無かつたから、停車場に迎へに来て呉れたも一人の方の友人――目形君――と同室する事にしたのだ。
宿の内儀《かみさん》は既《も》う四十位の、亡夫は道庁で可也《かなり》な役を勤めた人といふだけに、品のある、気の確乎《しつかり》した、言葉に西国の訛りのある人であつた。娘が二人、妹の方はまだ十三で、背のヒヨロ高い、愛嬌のない寂しい顔をしてゐる癖に、思ふ事は何でも言ふといつた様な淡白《きさく》な質《たち》で、時々間違つた事を喋つては衆《みんな》に笑はれて、ケロリとしてゐる児であつた。
姉は真佐子と言つた。その年の春、さる外国人の建てゝゐる女学校を卒業したとかで、体はまだ充分発育してゐない様に見えた。妹とは肖《に》ても肖つかぬ丸顔の、色の白い、何処と言つて美しい点《ところ》はないが、少し藪睨みの気味なのと片笑靨《かたゑくぼ》のあるのとに人好きのする表情があつた。女学校出とは思はれぬ様な温雅《しとや》かな娘で、絶え/″\な声を出して讃美歌を歌つてゐる事などがあつた。学校では大分宗教的な教育を享けたらしい。母親は、妹の方をば時々お転婆だ/\と言つてゐたが、姉には一言も小言を言はなかつた。
その外に遠い親戚だという眇目《めつかち》な男がゐた。警察の小使をした事があるとかで、夜分などは「現行警察法」といふ古い本を繙いてゐる事があつた。その男が内儀《かみさん》の片腕になつて家事万端立働いてゐて、娘の真佐子はチヨイ/\手伝ふ位に過ぎなかつた。何でも母親の心にしては、末の手頼《たより》にしてゐる娘を下宿屋の娘らしくは育てたくなかつたのであらう。素人屋《しろうとや》によくある例で、我々も食事の時は一同茶の間に出て、食卓を囲んで食ふことになつてゐたが、内儀はその時も成るべく娘には用をさせなかつた。
或朝、私が何か捜す物があつて鞄の中を調べてゐると、まだ使はない絵葉書が一枚出た。青草の中に罌粟《けし》らしい花の沢山咲き乱れてゐる、油絵まがひの絵であつた。不図、其処へ妹娘の民子が入つて来て、
『マア、綺麗な……』
と言つて覗《のぞ》き込む、
『上げませうか?』
『可《よ》くつて?』
手にとつて嬉しさうにして見てゐたが、
『これ、何の花?』
『罌粟《けし》。』
『恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4
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