々入込んだ為に、札幌にも小樽にも既《も》う一軒の貸家も無いといふ噂もあり、且は又、先方《むかう》へ行つて直ぐ家《うち》を持つだけの余裕も無しするから、家族は私の後から一先づ小樽にゐた姉の許《もと》へ引上げる事にした。
 九月十何日かであつた。降り続いた火事後の雨が霽《あが》ると、伝染病発生の噂と共に底冷《そこびえ》のする秋風が立つて、家を失ひ、職を失つた何万の人は、言ひ難き物の哀れを一様に味つてゐた。市街の大半を占めてゐる焼跡には、仮屋《かりや》建ての鑿《のみ》の音が急がしく響き合つて、まだ何処となく物の燻《くすぶ》る臭気《にほひ》の残つてゐる空気に新らしい木の香が流れてゐた。数少い友人に送られて、私は一人夜汽車に乗つた。
 翌暁《あくるあさ》小樽に着く迄は、腰下す席もない混雑で、私は一夜《ひとばん》車室の隅に立ち明した。小樽で下車して、姉の家で朝飯を喫《したた》め、三時間許りも仮寝《うたたね》をしてからまた車中の人となつた。車輪を洗ふ許りに涵々《ひたひた》と波の寄せてゐる神威古潭《かむゐこたん》の海岸を過ぎると、銭函駅に着く。汽車はそれから真直《ましぐら》に石狩の平原に進んだ。
 未見《みち》の境を旅するといふ感じは、犇々《ひしひし》と私の胸に迫つて来た。空は低く曇つてゐた。目を遮ぎる物もない曠野の処々には人家の屋根が見える。名も知らぬ灌木《くわんぼく》の叢生した箇処《ところ》がある。沼地がある――其処には蘆荻の風に騒ぐ状《さま》が見られた。不図、二町とは離れぬ小溝の縁の畔路《あぜみち》を、赤毛の犬を伴《つ》れた男が行く。犬が不意に駆け出した。男は膝まづいた。その前に白い煙がパツと立つた――猟夫だ。蘆荻の中から鴫らしい鳥が二羽、横さまに飛んで行くのが見えた。其向ふには、灌木の林の前に茫然《ぼんやり》と立つて、汽車を眺めてゐる農夫があつた。
 恁《か》くして北海道の奥深く入つて行くのだ。恁くして、或者は自然と、或者は人間同志で、内地の人の知らぬ劇《はげ》しい戦ひを戦つてゐる北海道の生活の、だん/\底へと入つて行くのだ――といふ感じが、その時私の心に湧いた。――その時はまだ私の心も単純であつた。既にその劇しい戦ひの中へ割込み、底から底と潜り抜けて、遂々《たうたう》敗けて帰つて来た私の今の心に較べると、実際その時の私は、単純であつた――
 小雨が音なく降り出した来た。気
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