、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐《きゅうこう》の天に飛翔《ひしょう》することを許さなかったのである。
 第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆|虚偽《きょぎ》である!」
 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒《しゅんきょ》して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
 さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。
 文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚《さま》してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享《う》くるからである。時代に没頭《ぼっとう》していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。



底本:「日本文学全集 12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版発行
   1972(昭和47)年9月10日9版発行
入力:j.utiyama
校正:浜野智
1998年8月1日公開
2005年11月27日修正
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