いちように起って答えるに違いない、まったくべつべつな答を。
さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を肯《がえん》じない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を享《う》けた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや贅沢《ぜいたく》で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を唱《とな》える人と主観の苦悶《くもん》を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格《かんかく》があるだろうか。淫売屋《いんばいや》から出てくる自然主義者の顔と女郎屋《じょろうや》から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪《しゅうあく》の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動[#「肉霊合致の全我的活動」に丸傍点]なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。
魚住氏は
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