くなる位なもの。顔色が顔色だから、少し位の酒気は見えないといふ得もあつた。徹夜《よどほし》三人で一斗五升飲んだといふ翌朝《あくるあさ》でも、物言ひが些《ち》と舌蕩《したたる》く聞える許りで、挙動《ものごし》から歩き振りから、確然《しつかり》としてゐた。一体私は、此叔父の蹣跚《よろよろ》した千鳥足と、少しでも慌てた態《さま》を見た事がなかつた。も一つ、幾何《いくら》酔つた時でも、唄を歌ふのを聞いた事がない。叔父は声が悪かつた。
それが、怎して村一番の乱暴者《あばれもの》かといふに、根が軽口の滑稽《しやれ》に快く飲む方だつたけれど、誰かしら酔ひに乗じて小生意気な事でも言出すと、座が曝《しら》けるのを怒るのか、
『馬鹿野郎! 行けい。』
と、突然《いきなり》林の中で野獣でも吼える様に怒鳴りつける。対手がそれで平伏《へこたま》れば可いが、さもなければ、盃を擲《な》げて、唐突《いきなり》両腕を攫んで戸外《そと》へ引摺り出す。踏む、蹴る、下駄で敲く、泥溝《どぶ》へ突仆《つきのめ》す。制《と》める人が無ければ、殺しかねまじき勢ひだ。滅多に負ける事がない。
それは、三日に一度必ずある。大抵夜の事だが、時とすると何日も何日も続く。又、自分が飲んでゐない時でも、喧嘩と聞けば直ぐ駆出して行つて、遮二無二中に飛込む。
喧嘩の帰途《かへり》は屹度私の家へ寄る。顔に血の附いてる事もあれば、衣服《きもの》が泥だらけになつてる事もあつた。『姉、姉、姉。』と戸外《そと》から叫んで来て、『俺ア今喧嘩して来た。うむ、姉、喧嘩が悪いか? 悪いか?』と入つて来る。
母は、再《また》かと顔を顰《しか》める。叔父は上框《あがりがまち》に突立つて、『悪いなら悪いと云へ。沢山《うんと》怒れ。汝《うな》の小言など屁でもねえ!』と言つて、『馬鹿野郎。』とか、『この源作さんに口一つ利いて見ろ。』とか、一人で怒鳴りながら出て行く。其度、姉や私等は密接《くつつき》合つて顫へたものだ。
『源作が酒と博奕を止めて呉れると喃《なあ》!』
と、父はよく言ふものであつた。『そして、少し家業に身を入れて呉れると可《え》えども。』と、母が何日《いつ》でも附加へた。
私が、まだ遙《ずつ》と稚なかつた頃、何か強情でも張つて泣く様な時には、
『それ、まだ源作|叔父様《おんつあん》が酔つて来るぞ。』と、姉や母に嚇《おど》されたものである。
二
村に士族が三軒あつた。何れも旧南部藩の武家《さむらひ》、廃藩置県の大変遷、六十余州を一度に洗つた浮世の波のどさくさに、相前後して盛岡の城下から、この農村《ひやくしやうむら》に逼塞《ひつそく》したのだ。
其一軒は、東《ひがし》といつて、眇目《めつかち》の老人の頑固《つむじまがり》が村人の気受に合はなかつた。剰《おまけ》に、働盛りの若主人が、十年近く労症を煩《わづら》つた末に死んで了つたので、多くもなかつた所有地《もちち》も大方人手に渡り、仕方なしに、村の小児《こども》相手の駄菓子店を開いたといふ仕末で、もう其頃――私の稚かつた頃――は、誰も士族扱ひをしなかつた。私は、其店に買ひに行く事を、堅く母から禁ぜられてゐたものである。其|理由《わけ》は、かの眇目の老人が常に私の家に対して敵意を有つてるとか言ふので。
東の家に美しい年頃の娘があつた。お和歌さんと言つた様である。私が六歳《むつつ》位の時、愛宕《あたご》神社の祭礼《おまつり》だつたか、盂蘭盆《うらぼん》だつたか、何しろ仕事を休む日であつた。何気なしに裏の小屋の二階に上つて行くと、其お和歌さんと源作叔父が、藁の中に寝てゐた。お和歌さんは「呀《あ》ツ。」と言つて顔をかくした様に記憶《おぼ》えてゐる。私は目を円《まろ》くして、梯子口から顔を出してると、叔父は平気で笑ひながら、「誰にも言ふな。」と言つて、お銭《あし》を呉れた。其|翌日《あくるひ》、私が一人裏伝ひの畑の中の路を歩いてると、お和歌さんが息をきらして追駈《おつか》けて来て、五本だつたか十本だつたか、黒羊※[#「羔/((美−大)/人)」、180−下−15]をどつさり呉れて行つた事がある。其以後《それから》といふもの、私はお和歌さんが好で、母には内密《ないしよ》で一寸々々《ちよいちよい》、東の店に痰切飴《たんきり》や氷糸糖《アルヘイ》を買ひに行つた。眇目の老人さへゐなければ、お和歌さんは何時でも負けてくれたものだ。
残余《あと》の二軒は、叔父の家《うち》と私の家。
高田家と工藤家――私の家――とは、小身ではあつたが、南部初代の殿様が甲斐の国から三戸《さんのへ》の城に移つた、其時からの家臣なさうで、随分古くから縁籍の関係があつた。嫁婿の遣取《やりとり》も二度や三度でなかつたと言ふ。盛岡の城下を引掃《ひきはら》ふ時も、両家で相談した上で、多
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング