梅同樣、長しなへに空の日の光といふものを遮《さへぎ》られ、酷薄と貧窮と恥辱と飢餓の中に、年少脆弱、然も不具の身を以て、健氣にも單身寸鐵を帶びず、眠る間もなき不斷の苦鬪を持續し來つて、肉は落ち骨は痩せた壯烈なる人生の戰士――が、乃ち此男ではあるまいか。朱雲は嘗て九圓の月俸で、かゝる人生の戰士が暫しの休息所たる某監獄に看守の職を奉じて居た事がある。して見れば此二人が必ずしも接近の端緒を得なんだとはいへない。今思ひ出す、彼は嘗て斯う云うた事がある、『監獄が惡人の巣だと考へるのは、大いに間違つて居るよ、勿體ない程間違つて居るよ。鬼であるべき筈の囚人共が、政府の官吏として月給で生き劍をブラ下げた我々看守を、却つて鬼と呼んで居る。其筈だ、眞の鬼が人間の作つた法律の網などに懸るものか。囚人には涙もある、血もある、又よく物の味も解つて居る、實に立派な戰士だ、たゞ悲しいかな、一つも武器といふものを持つて居ない。世の中で美《うま》い酒を飮んでゐる奴等は、金とか地位とか、皆それ/″\に武器を持つて居るが、それを、その武器だけを持たなかつた許りに戰がまけて、立派な男が柿色の衣を着る。君、大臣になれば如何な現行犯をやつても、普通の巡査では手を出されぬ世の中ではないか。僕も看守だ、が、同僚と喧嘩はしても、まだ囚人の頬片《ほつぺた》に指も觸れた事がない。朝から晩まで夜叉の樣に怒鳴つて許り居る同僚もあるが、どうして此僕にそんな事が出來るものか。』
然し此想像も亦、敢て當れりとは云ひ難い。何故となれば、現に今自分を見て居るこの男の右の眼の、親しげな、なつかしげな、心置きなき和《なごや》かな光が、別に理由を説明するでもないが、何だか、『左樣ではありませぬ』と主張して居る樣に見える。平生いかに眼識の明を誇つて居る自分でも、此咄嗟の間には十分精確な判斷を下す事は出來ぬ。が兎も角、我が石本君の極めて優秀なる風采と態度とは、決して平凡な一本路を終始並足で歩いて來た人でないといふ事丈けは、完全に表はして居るといつて可い。まだ一言の述懷も説明も聞かぬけれど、自分は斯う感じて無限の同情を此悄然たる人に捧げた。自分と石本君とは百分の一秒毎に、密接の度を強めるのだ。そして、旅順の大戰に足を折られ手を碎かれ、兩眼また明を失つた敗殘の軍人の、輝く金鵄勳章を胸に飾つて乳母車で通るのを見た時と同じ意味に於ての痛切なる敬意が、また此時自分の心頭に雲の如く湧いた。
茲に少し省略の筆を用ゐる。自分の問に對して、石本君が、例の音吐朗々たるナポレオン聲を以て詳しく説明して呉れた一切は、大略次の如くであつた。
石本俊吉は今|八戸《はちのへ》(青森縣|三戸《さんのへ》郡)から來た。然し故郷はズット南の靜岡縣である。土地で中等の生活をして居る農家に生れて、兄が一人妹が一人あつた。妹は俊吉に似ぬ天使の樣な美貌を持つて居たが、其美貌祟りをなして、三年以前、十七歳の花盛の中に悲慘な最後を遂げた。公吏の職にさへあつた或る男の、野獸の如き貪婪《どんらん》が、罪なき少女の胸に九寸五分の冷鐵を突き立てたのだといふ。兄は立派な體格を備へて居たが、日清の戰役に九連城畔であへなく陣歿した。『自分だけは醜い不具者であるから未だ誰にも殺されないのです。』と俊吉は附加へた。兩親は仲々勉強で、何一つ間違つた事をした覺えもないが、どうしたものか兄の死後、格段な不幸の起つたでもないのに、家運は漸々傾いて來た。そして、俊吉が十五の春、土地の高等小學校を卒業した頃は、山も畑も他人の所有《もの》に移つて、少許《すこしばかり》の田と家屋敷が殘つて居た丈けであつた。其年の秋、年上な一友と共に東京に夜逃をした。新橋へ着いた時は懷中僅かに二圓三十錢と五厘あつた丈けである。無論前途に非常な大望を抱いての事。稚ない時から不具な爲めに受けて來た恥辱が、抑ゆべからざる復讐心を起させて居たので、この夜逃も詰りは其爲めである。又同じ理由に依つて、上京後は勞働と勉學の傍ら熱心に柔道を學んだ。今ではこれでも加納流の初段である。然し其頃の悲慘なる境遇は兎ても一朝一夕に語りつくす事が出來ない、餓ゑて泣いて、國へ歸らうにも旅費がなく、翌年の二月、さる人に救はれる迄は定まれる宿とてもなかつた位。十六歳にして或る私立の中學校に這入つた。三年許りにして其|保護者《パトロン》の死んだ後は、再び大都の中央《まんなか》へ礫《いしころ》の如く投げ出されたが、兎に角非常な勞働によつて僅少の學費を得、其學校に籍だけは置いた。昨年の夏、一月許り病氣をして、ために東京では飯喰ふ道を失ひ、止むなく九月の初めに、友を便つて乞食をしながら八戸迄東下りをした。そして、實に一週間以前までは其處の中學の五年級で、朝は早く『八戸タイムス』といふ日刊新聞の配達をし、午後三時から七時迄四時間の間は、友人
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