い時も斯うであらう。我が敬慕に値する善良なる女教師山本孝子女史は、いつの間にかまた、パペ、サタン、を初めて居る。
入口を見ると、三分刈のクリ/\頭が四つ、朱鷺色《ときいろ》のリボンを結んだのが二つ並んで居た。自分が振り向いた時、いづれも嫣然《につこり》とした。中に一人、女教師の下宿してる家の榮さんといふのが、大きい眼をパチ/\とさせて、一種の暗號祝電を自分に送つて呉れた。珍らしい悧巧な少年である。自分も返電を行《や》つた。今度は六人の眼が皆一度にパチ/\とする。
不意に、若々しい、勇ましい合唱の聲が聞えた。二階の方からである。
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春まだ淺く月若き
生命《いのち》の森の夜《よる》の香《か》に
あくがれ出でて我が魂《たま》の
夢むともなく夢むれば……
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あゝ此歌である、日露開戰の原因となつたは。自分は颯と電氣にでも打たれた樣に感じた。同時に梯子段を踏む騷々しい響がして、聲は一寸亂れる。降《お》りて來るな、と思ふと早や姿が現はれた。一隊五人の健兒、先頭に立つたのは了輔と云つて村長の長男、背こそ高くないが校内第一の腕白者、成績も亦優等で、ジャコビン黨の内でも最も急進的な、謂はば爆彈派の首領である。多分二階に人を避けて、今日課外を休まされた復讐の祕密會議でも開いたのであらう。あの元氣で見ると、既に成算胸にあるらしい。願くば復《また》以前の樣に、深夜宿直室へ礫の雨を注ぐ樣な亂暴はしてくれねばよいが。
一隊の健兒は、春の曉の鐘の樣な冴え/″\した聲を張り上げて歌ひつゞけ乍ら、勇ましい歩調《あしどり》で、先づ廣い控處の中央に大きい圓を描いた。と見ると、今度は我が職員室を目蒐けて堂々と練《ね》つて來るのである。
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「自主《じしゆ》」の劍《つるぎ》を右手《めて》に持ち、
左手《ゆんで》に翳《かざ》す「愛」の旗、
「自由」の駒に跨がりて
進む理想の路すがら、
今宵|生命《いのち》の森の蔭
水のほとりに宿かりぬ。
そびゆる山は英傑の
跡を弔ふ墓標《はかじるし》、
音なき河は千載に
香る名をこそ流すらむ。
此處は何處と我問へば、
汝《な》が故郷と月答ふ。
勇める駒の嘶《いなな》くと
思へば夢はふと覺めぬ。
白羽の甲《かぶと》銀の楯
皆消えはてぬ、さはあれど
ここに消えざる身ぞ一人
理想の路に佇みぬ。
雪をいただく岩手山
名さへ優しき姫神の
山の間を流れゆく
千古の水の北上に
心を洗ひ……
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と此處まで歌つたときは、恰度《ちやうど》職員室の入口に了輔の右の足が踏み込んだ處である。歌は止んだ。此數分の間に室内に起つた光景は、自分は少しも知らなんだ。自分はたゞ一心に歩んでくる了輔の目を見詰めて、心では一緒に歌つてゐたのである。――然も心の聲のあらん限りをしぼつて。
不圖氣がつくと、世界滅盡の大活劇が一秒の後に迫つて來たかと見えた。校長の顏は盛んな山火事だ。そして目に見ゆる程ブル/\と震へて居る。古山は既に椅子から突立つて飢饉に逢つた仁王樣の樣に、拳を握つて矢張震へて居る。青い太い靜脈が顏一杯に脹れ出して居る。
榮さんは了輔の耳に口を寄せて、何か囁いて居る。了輔は目を象の鼻穴程に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて熱心に聞いて居る。どちらかと云へば生來太い方の聲なので、返事をするのが自分にも聞える。
『……ナニ、此歌を?……ウム……勝つたか、ウム、然うさ、然うとも、見たかつたナ……飮まないつて、酒を?……然し赤いな、赤鰻ツ。』
最後の聲が稍高かつた。古山は激しい聲で、
『校長さん。』
と叫んだ。校長は立つた。轉機《はずみ》で椅子が後《うしろ》に倒れた。妻君は未《ま》だ動かないで居る。然し其顏の物凄い事。
『彼方《あつち》へ行け。』
『彼方へお出なさい。』
自分と女教師とは同時に斯う云つて、手を動かし、目で知らせた。了輔の目と自分の目と合つた。自分は目で強く壓した。
了輔は遂に驅け出した。
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そびゆる山は英傑の
跡を弔ふ墓標《はかじるし》、
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と歌ひ乍ら。他の兒等も皆彼の跡を追うた。
『勝つた先生萬歳』
と鬨の聲が聞える。五六人の聲だ。中に、量のある了輔の聲と、榮さんのソプラノなのが際立《きはだ》つて響く。
自分の目と女教師の目と礑《はた》と空中で行き合つた。その目には非常な感激が溢れて居る。無論自分に不利益な感激でない事は、其光り樣で解る。――恰《あたか》も此時、
恰も此時、玄關で人の聲がした。何か云ひ爭うて居るらしい。然し初めは、自分も激して居る故《せゐ》か、確《しか》とは聞き取れなかつた。一人は小使の聲である。一人は? どうも前代未聞の聲の樣だ。
『……何云つたつて、乞食《こ
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