にさう云ふ貴君《あなた》が作つたではないか。』
『問題は其處ですて。私には順序……』
皆まで云はさず自分は手をあげて古山を制した。
『問題も何も無いぢやないですか。既に私の作つたアレを、貴男方が校歌だと云つてるぢやありませぬか。私はこのS――村尋常高等小學校の校歌を作つた覺えはありませぬ。私はたゞ、この學校の生徒が日夕吟誦しても差支のない樣な、校歌といふやうな性質のものを試みに作つた丈です。それを貴君方が校歌というて居られる。詰り、校歌としてお認め下さるのですな。そこで生徒が皆それを、其校歌を歌ふ。問題も何も有つた話ぢやありますまい。此位天下泰平な事はないでせう。』
校長と古山は顏を見合せる。女教師の目には滿足した樣な微笑が浮んだ。入口の處には二人の立番の外に、新らしく來たのがある。後の障子が颯と開いて、腰の邊《あたり》に細い紐を卷いたなり、帶も締めず、垢臭い木綿の細かい縞の袷をダラシなく着、胸は露はに、抱いた子に乳房|啣《ふくま》せ乍ら、靜々と立現れた化生《けしやう》の者がある。マダム馬鈴薯の御入來だ。袷には黒く汗光りのする繻子の半襟がかゝつてある。如何《どう》考へても、決して餘り有難くない御風體である。針の樣に鋭どく釣上つた眼尻から、チョと自分を睨《にら》んで、校長の直ぐ傍に突立つた。若しも、地獄の底で、白髮茨の如き痩せさらぼひたる斃死の状《さま》の人が、吾兒の骨を諸手《もろて》に握つて、キリ/\/\と噛む音を、現實の世界で目に見る或形にしたら、恐らくそれは此女の自分を一睨した時の目付それであらう。此目付で朝な夕な胸を刺されたる校長閣下の心事も亦、考へれば諒とすべき點のないでもない。
生ける女神《めがみ》――貧乏の?――は、石像の如く無言で突立つた。やがて電光の如き變化が此室内に起つた。校長は今迄忘れて居た嚴格の態度を再び裝はんとするものの如く、其顏面筋肉の二三ヶ所に、或る運動を與へた。援軍の到來と共に、勇氣を回復したのか、恐怖を感じたのか、それは解らぬが、兎に角或る激しき衝動を心に受けたのであらう。古山も面を上げた。然し、もうダメである。攻勢守勢既に其地を代へた後であるのだもの。自分は敵勢の加はれるに却つて一層勝誇つた樣な感じがした。女教師は、女神を一目見るや否や、譬へ難き不快の霧に清い胸を閉されたと見えて、忽ちに俯いた。見れば、恥辱を感じたのか、氣の毒と思つたのか、それとも怒つたのか、耳の根迄紅くなつて、鉛筆の尖《さき》でコツ/\と卓子《テーブル》を啄《つつ》いて居る。
古山が先づ口を切つた。『然し、物には總て順序がある。其順序を踏まぬ以上は、……一足飛びに陸軍大將にも成れぬ譯ですて。』成程古今無類の卓説である。
校長が續いた。『其正當の順序を踏まぬ以上は、たとへ校歌に採用して可いものであつても未だ校歌とは申されない。よし立派な免状を持つて居らぬにしても、身を教育の職に置いて月給迄貰つて居る者が、物の順序を考へぬとは、餘りといへば餘りな事だ。』
云ひ終つて堅く口を閉ぢる。氣の毒な事に其へ[#「へ」に白丸傍点]の字が餘り恰好がよくないので。
女神の視線が氷の矢の如く自分の顏に注がれた。返答如何にと促がすのであらう。トタンに、無雜作に、といふよりは寧ろ、無作法に束ねられた髮から、櫛が辷り落ちた。敢て拾はうともしない。自分は笑ひながら云うた。
『折角順序々々と云ふお言葉ですが、一體何ういふ順序があるのですか。恥かしい話ですが、私は一向存じませぬので。……若し其校歌採用の件とかの順序を知らない爲めに、他日誤つて何處かの校長にでもなつた時、失策する樣な事があつても大變ですから、今教へて頂く譯に行きませぬでせうか。』
校長は苦《にが》り切つて答へた。『順序と云つても別に面倒な事はない。第一に(と力を入れて)校長が認定して、可いと思へば、郡視學さんの方へ屆けるので、それで、ウム、その唱歌が學校生徒に歌はせて差支へない、と云ふ認可が下りると、初めて校歌になるのです。』
『ハヽア、それで何ですな、私の作つたのは、其正當の順序とかいふ手數にかけなかつたので、詰り、早解りの所が、落第なんですな。結構です。作者の身に取つては、校歌に採用されると、されないとは、完く屁の樣な問題で、唯自分の作つた歌が生徒皆に歌はれるといふ丈けで、もう名譽は十分なんです。ハヽヽヽヽ。これなら別に論はないでせう。』
『然し、』と古山が繰り出す。此男然し[#「然し」に白丸傍点]が十八番《おはこ》だ。『その學校の生徒に歌はせるには矢張り校長さんなり、また私なりへ、一應其歌の意味でも話すとか、或は出來上つてから見せるとかしたら隱便で可いと、マア思はれるのですが。』
『のみならず、學校の教案などは形式的で記《しる》す必要がないなどと云つて居て、宅《うち》へ歸
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