た處のないでもないが、高等科生徒の殆んど三分の二、イヤ五分の四迄は確かに知つて居る。晝休みの際などは、誰先立つとなく運動場に一|蛇《だ》のポロテージ行進が始つて居た。彼是《かれこれ》百人近くはあつたらう、尤も野次馬の一群も立交つて居たが、口々に歌つて居るのが乃ち斯く申す新田耕助先生新作の校友歌であつたのである。然し何も自分の作つたものが大勢に歌はれたからと云つて、決して恥でもない、罪でもない、寧ろ愉快なものだ、得意なものだ。現に其行進を見た時は、自分も何だか氣が浮立つて、身體中何處か斯う擽られる樣で、僅か五分間許りではあるが、自分も其行進列中の一人と迄なつて見た位である。……問題の鍵は以後《これから》である。
 午後三時前三――四分、今迄矢張り不器用な指を算盤の上に躍らせて、『パペ、サタン、パペ、サタン』を繰返して居た校長田島金藏氏は、今しも出席簿の方の計算を終つたと見えて、やをら頭を擡げて煙管《きせる》を手に持つた。ポンと卓子《テーブル》の縁《ふち》を敲《たた》く、トタンに、何とも名状し難い、狸の難産の樣な、水道の栓から草鞋でも飛び出しさうな、――も少し適切に云ふと、隣家の豚が夏の眞中に感冒《かぜ》をひいた樣な奇響――敢て、響といふ――が、恐らく仔細に分析して見たら出損なつた咳の一種でゞもあらうか、彼の巨大なる喉佛の邊から鳴つた。次いで復《また》幽かなのが一つ。もうこれ丈けかと思ひ乍ら自分は此時算盤の上に現はれた八四・七九という數を月表の出席歩合男の部へ記入しようと、筆の穗を一寸噛んだ。此刹那、沈痛なる事晝寢の夢の中で去年死んだ黒猫の幽靈の出た樣な聲あつて、
『新田さん。』
と呼んだ。校長閣下の御聲掛りである。
 自分はヒョイと顏を上げた。と同時に、他の二人――首座と女教師も顏を上げた。此一瞬からである、『パペ、サタン、パペ、サタン、アレッペ』の聲の礑《はた》と許り聞えずなつたのは。女教師は默つて校長の顏を見て居る。首席訓導はグイと身體をもぢつて、煙草を吸ふ準備をする。何か心に待構へて居るらしい。然り、この僅か三秒の沈默の後には、近頃珍らしい嵐が吹き出したのだもの。
『新田さん。』と校長は再び自分を呼んだ。餘程嚴格な態度を裝うて居るらしい。然しお氣の毒な事には、平凡と醜惡とを「教育者」といふ型に入れて鑄出した此人相には、最早他の何等の表情をも容るべき空虚がないのである。誠に完全な「無意義」である。若し強いて嚴格な態度でも裝はうとするや最後、其結果は唯對手をして一種の滑稽と輕量な憐愍の情とを起させる丈だ。然し當人は無論一切御存じなし、破鐘の欠伸《あくび》する樣な訥辯は一歩を進めた。『貴男《あなた》に少しお聞き申したい事がありますがナ。エート、生命《いのち》の森の……。何でしたつけナ、初の句は?(と首座訓導を見る、首座は、甚だ迷惑といふ風で默つて下を見た。)ウン、左樣々々、春まだ淺く月若き、生命《いのち》の森の夜の香に、あくがれ出でて、……とかいふアノ唱歌ですて。アレは、新田さん、貴男《あなた》が祕《ひそ》かに作つて生徒に歌はせたのだと云ふ事ですが、眞實《ほんと》ですか。』
『嘘です。歌も曲も私の作つたには相違ありませぬが、祕かに作つたといふのは嘘です。蔭仕事は嫌ひですからナ』
『デモさういふ事でしたつけね、古山さん先刻《さつき》の御話では。』と再び隣席の首座訓導を顧みる。
 古山の顏には、またしても迷惑の雲が懸つた。矢張り默つた儘で、一|閃《せん》の偸視《ぬすみみ》を自分に注いで、煙を鼻からフウと出す。
 此光景を目撃して、ハヽア、然うだ、と自分は早や一切を直覺した。かの正々堂々赤裸々として俯仰天地に恥づるなき我が歌に就いて、今自分に持ち出さんとして居る抗議は、蓋し泥鰻金藏閣下一人の頭腦から割出したものではない。完《まつ》たく古山と合議の結果だ。或は古山の方が當の發頭人であるかも知れない。イヤ然うあるべきだ、この校長一人丈けでは、如何《どう》して這※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》元氣の出る筈が無いのだもの。一體この古山といふのは、此村土着の者であるから、既に十年の餘も斯うして此學校に居る事が出來たのだ。四十の坂を越して矢張五年前と同じく十三圓で滿足して居るのでも、意氣地のない奴だといふ事が解る。夫婦喧嘩で有名な男で、(此點は校長に比して稍々温順の美徳を缺いて居る。)話題と云へば、何日《いつ》でも酒と、若い時の經驗談とやらの女話、それにモ一つは釣道樂、と之れだけである。最もこの釣道樂だけは、この村で屈指なもので、既に名人の域に入つて居ると自身も信じ人も許して居る。隨つて主義も主張もない、(昔から釣の名人になるやうな男は主義も主張も持つてないと相場が極つて居る。)隨つて當年二十一歳
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