つてのは僕の處世のモットオだもの。』
『これで先《ま》あ安井の批評は片が附いた譯か。――それあ當らなかつたのは無理が無いね。第一僕等は、君がこんな巧妙なる説話者だとは思ひ掛けなかつたからなあ。』
『巧妙なる説話者か! 餘り有難い戒名でも無いね。』
『はゝゝ。――それからも一つは何うなんだ? 野心家だつて方は?』
『ストライキの大將か! それも半當りだね。――いや、矢つ張り當らないね。』
『然し君が何か知ら野心を抱いてる男だつてことは、我々の輿論だよ。』
『何んな野心を?』
『それは解るもんか、君に聞かなけれあ。』
『僕には野心なんて無いね。』
『そんな事が有るもんか。誰だつて野心の無い者は無いさ。――野心と言ふのが厭なら希望と言つても可い。』
『僕には野心は無いよ。たゞ、結論だけはある。』
『結論?』
『斯くせねばならんと言ふのではなく、斯く成らねばならんと言ふ――』
『君は一體、決して人に底を見せない男だね。餘り用心が深過ぎるぢやないか? 底を見せても可い時にまで理窟の網を張る。』
『底? 底つて何だ? 何處に底があるんだ?』
『心の底さ。』
『そんなら君は、君の心の底はこれだつて僕に見せる事が出來るか?』
 高橋は疊みかけるやうに、『人はよく、少し親しくなると、心の底を打明けるなんて言ふさ。然しそれを虚心で聞いて見給へ。内緒話《ないしよばなし》か、僻見《ひがみ》か空想に過ぎない。厭なこつた。嬶の不足や、他《はた》で聞いてさへ氣羞かしくなる自惚れを語つたつて何うなる? 社の校正に此の頃妙な男が入つて來たらう? 此の間僕は電車で一緒になつたから、「何うです、君の方の爲事《しごと》は隨分氣が塞《つま》るでせうね?」つて言つたら、「いや、貴方だから打明けて言ひますが、實に下らないもんです。」とか何とか、役者みたいな抑揚をつけて言つたよ。郷里の新聞で三面の主任をしたとか何とか言ふんだ。僕は「左樣なら。」つて途中で下りて了つた。』
 私はそれには答へないで、
『君は社會主義者ぢやないか?』
『何故?』
『劍持が此間さう言つとつた。』
 高橋は昵と私を見つめた。
『社會主義?』
『でなければ無政府主義か。』
 世にも不思議な事を聞くものだと言ひさうな、眼を大きくして呆れてゐる顏を私は見た。其處には少しも疑ひを起させるやうなところは無かつた。
 やがて高橋は、
『劍持が言つた?』
『ぢや無からうかといふだけの話さ。』
『僕は社會主義者では無い。』と高橋は言ひ澁るやうに言ひ出した。『――然し社會主義者で無いといふのは、必ずしも社會主義に全然反對だといふことでは無い。誰でも仔細に調べて見ると、多少は社會主義的な分子を有つてるもんだよ。彼のビスマァクでさへ社會主義の要求の幾分を内政の方面では採用してるからね。――と言ふのは、社會主義のセオリイがそれだけ普遍的な眞理を含んでゐるといふことよりも、寧ろ、社會的動物たる人間が、何れだけ其の共同生活に由つて下らない心配をせねばならんかといふことを證據立ててゐるんだ。』
『よし。そんなら君の主義は何主義だ?』
『僕には主義なんて言ふべきものは無い。』
『無い筈は無い。――』
『困るなあ、世の中といふものは。』高橋はまた寢轉んだ。『――言へば言つたで誤つて傳へるし、言はなければ言はんで勝手に人を忖度する。君等にまで誤解されちや詰らんから、それぢや言ふよ。』さう言つて起きて、
『僕には實際主義なんて名づくべきものは無い。昔は有つたかも知れないが今は無い。これは事實だよ。尤も僕だつて或考へは有つてゐる。僕はそれを先刻結論といつたが、假に君の言ひ方に從つて野心と言つても可い。然し其の僕の野心は、要するに野心といふに足らん野心なんだ。そんなに金も欲しくないしね。地位や名譽だつてさうだ。そんな者は有つても無くても同じ者だよ。』
『世の中を救ふとでも言ふのか?』
『救ふ? 僕は誇大妄想狂ぢや無いよ。――僕の野心は、僕等が死んで、僕等の子供が死んで、僕等の孫の時代になつて、それも大分年を取つた頃に初めて實現される奴なんだよ。いくら僕等が焦心《あせ》つたつてそれより早くはなりやしない。可いかね? そして假令それが實現されたところで、僕一個人に取つては何の増減も無いんだ。何の増減も無い! 僕はよくそれを知つてる。だから僕は、僕の野心を實現する爲めに何等の手段も方法も採つたことはないんだ。今の話の體操教師のやうに、自分で機會を作り出して、其の機會を極力利用するなんてことは、僕にはとても出來ない。出來るか、出來ないかは別として、從頭《てんで》そんな氣も起つて來ない。起らなくても亦可いんだよ。時代の推移といふものは君、存外急速なもんだよ。色んな事件が毎日、毎日發生するね。其の色んな事件が、人間の社會では何んな事件だつて單獨に發生す
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