何といふ皮肉な眼だらうと私は思つた。
『君らしいぢやないか。』
 高橋はごろりと仰向けて臥て了つた。そして兩手を頭に加《か》ひながら、
『君等は一體僕を何う見てるのかなあ。何んな男に見えるね? 僕は何んな男だかは、僕にも解らないよ。――誰か僕の批評をしとつた者は無いか?』
 私は肩の重荷が輕くなつて行くやうに感じた。此處から話が變つて行くと思つたのだ。
 そして、思出した儘に、我々がまだ高橋と親しくならなかつた以前、我々の彼に就いて語つたことを話して聞かせた。例の體操教師の一件だ。そればかりではない。高橋が話の途中から起き上つて、恰度他人の噂でも聞くやうに面白さうにしてゐるのに釣り込まれて、安井の言つた無駄口までつひ喋つて了つた。――後で考へるに、高橋が其の時面白さうにしてゐたのも無理は無い。彼は自分に關する批評よりも、其の批評をした一人、一人に就いて何か例の皮肉な考へ方をしてゐたに違ひない……
 が、私の話が濟むと、彼は急に失望した樣な顏をして、また臥轉んで了つた。そして言ふには、
『其の批評は、然し、當つてると言へば皆當つてるが、當らないと言へば皆當らないね。』
『ははは。それはさうさ。僕等がまだ君に接近しない時の事だもの。――然し當つたとすれば何の程度まで當つてる?』
『さうさね。先づ其の細君の尻に布《し》かれるといふ奴だね。此奴は大分當つてるよ。僕は平生、平氣で尻に布かれてるよ。全くだよ。尤も餘り重いお尻でも無いがね。夫婦といふものが君、互ひに自分の權利を主張して、しよつちゆう取つ組み合ひをしたり、不愉快な思ひをしたりしてるよりは、少し位は莫迦らしくても、機嫌を取つて、賺《すか》して置く方が、差引勘定して餘つ程|得《とく》だよ。時間も得だし、經濟上でも得だよ。それ、芝居を好きな奴にや、よく役者の眞似をしたり、聲色をつかつたりして得意になつてる奴があるだらう? 僕は彼《あ》あいふ奴にや、目の玉を引繰返して妙な手附をしてるところを活動寫眞に撮《と》つておいて、何時か正氣でゐる時見せてやると可いと思ふね。さうしたら大抵の奴は二度とやらなくなるよ。夫婦喧嘩もそれだね。考へるとこれ程莫迦らしい事は無いものな。それよりや機嫌を取つておくさ。先方がにこ/\してゐれや此方だつて安んじてゐられる。……といふと大分|甘《あま》く取れるがね。然し正直のところ、僕は僕の細君を些とも愛してなんかゐないよ。これは先方もさうかも知れない。つまり生活の方便さ。それに、僕の細君は美人でも無いし、賢夫人でも無いよ。無くつても然し僕は構はん。要するに、自分の眼中に置かん者の爲に一分でも時間を潰して、剩《おま》けに不愉快な思ひをするのは下らん話だからね。』
『そらあ少し酷《ひど》い。』
『酷くても可いぢやないか? 先方がそれで滿足してる限りは。』と言ひながら起き上つた。
『尤も口ではさう言つても、其處にはまた或調和が行はれてゐるさ。』
『それはさうかも知れない。――然し兎に角我々の時代は、もう昔のやうな、一心兩體といふやうな羨ましい夫婦關係を作ることが出來ない約束になつて來てるんだよ。自然主義者は舊道徳を破壞したのは俺だといふやうな面《つら》をしてゐるが、あれは尤も本末を顛倒してる。舊道徳に裂隙《ひび》が割れたから、其の裂隙から自然主義といふ樣なものも芽を出して來たんだ、何故其の裂隙が出來たかといふと、つまり先祖の建てた家が、我々の代になつて玄關の構へだの、便所の附け處だの、色々不便なところが出來て來た樣なものだ。それを大工を入れて修繕しようと、或は又すつかり建て代へようと、それは各自の勝手だが、然しいくら建て代へたつて、家其のものの大體には何の變化も無い。形と材料とは違つても、土臺と屋根と柱と壁だけは必ず要《い》る。破壞なんて言ふのは大袈裟だよ。それから又、其の裂隙を何とかして彌縫しようと思つて、一生懸命になつてる人も有るが、あれも要するに徒勞だね。我々の文明が過去に於て經來つた徑路を全然變へて了はない以上は、漆を詰めようが砂を詰めようが、乃至は金で以て塗りつぶさうが、裂隙は矢張り裂隙だ。さうして我々は、其の裂隙を何うすれば可いかといふ事に就いちや、まだまるで盲目なんだ。彼《あ》あか、斯うかと思ふことは有る。然しまだそれに決めて了ふまでには考へが熟してゐない。また時機でもない。先《ま》あ東京の家を見給へ。今日の東京は殆どあらゆる建築の樣式を取込んでゐる、つまり彼《あ》れなんだ。何時とはなく深い谷底に來て了つて、何方へ行つて可いか、方角が解らない。そこで各自勝手に、木の下に宿を取る者もあれば、小屋掛けをする者もある。それからそれ、岩窟《いはあな》を見つける者もある。ね? 色々の事をしてゐるが、たゞ一つ解つてるのは、それが皆其の晩一晩だけの假の宿だといふことだ
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