『僕は公平なんさ。物にはすべて一得、一失有りつてね。小學校にゐる頃から聞いたんぢやないか? 兩面から論じなくちやあ議論の正鵠は得られない。』
『嘘を吐《つ》け!』
『嘘なもんか。――と言ふとまた喧嘩になるか!――尤もさういふ所もあるね。僕にはね。人が何か言ふと、自分で何か考へる時でもさうだが、直ぐそれを別の立場に移して考へる癖があるんだ。其の結果が時として好んで人に反對するやうに見えるかも知れない。』
『それは何方が正直で言ふ言葉か?』
『僕は何時でも正直だよ。――然し、正直でも不正直でも可いぢやないか? 君は一體餘り單純だから困るよ。此處にゐる連中は、何《ど》れだつて多少不穩な人間共にや違ひないが、就中《なかんづく》不穩なのは君だよ。人の言葉を一々正直か、不正直か、極めてかゝらうとするし、言つたことは直ぐ實行したがる。餘り單純で、僕から見ると危險で爲樣がない。危險なばかりぢやない、損だよ。單純な性格は人に愛せられるけれども、また直ぐ飽かれるといふ憂ひがあるからね。』
『それはさうぢや。よく當つとる。』と劍持も同意した。
『それが龜山(私の名)の長所で、同時に缺點よ。』
『飽《あい》たら勝手に飽くさ。』と私は笑つた。

      三

 その頃だつた。
 或晩高橋が一人私の家へやつて來て、何時になくしめやかな話をした。「劍持は豪いところが有るよ。彼の男は屹度今に發展する。」そんな事も言つた。それが必ずしも態《わざ》とらしく聞こえなかつた。其の晩高橋は何でも人の長所ばかりを見ようと努めてゐるやうだつた。
『僕にもこれで樗牛にかぶれてゐた時代が有つたからねえ。』
 何の事ともつかず、高橋はそんな事を言つた。そして眼を細くして、煙草の煙を眺めてゐた。煙はすうつと立つて、緩かに亂れて、机の上の眞白な洋燈の笠に這ひ纒つた。戸外には雨が降つてゐた。雨に籠もつて火事半鐘のやうな音が二、三度聞こえた。然し我々はそれを聞くでもなかつた。
『僕はこれで夢想家《ドリイマア》に見えるところがあるかね?』
 高橋はまたそんなことも言つた。そして私の顏を見た。
『見えないね。』私は言下に答へた。『然し見えないだけに、君の見てる夢は餘程しつかりした夢に違ひない。……誰でも何かの夢は見てるもんだよ。』
『さうかね?』
『さう見えるね。』
 高橋は幽かに微笑んだ。
 稍あつてまた、
『僕等は、まだまだ修行が足らんね。僕は時々さう思ふ。』
『修行?』
『僕は今までそれを、つまり僕等の理解が、まだ足らん所爲《せゐ》だと思つてゐた。常に鋭い理解さへ持つてゐれば、現在の此の時代のヂレンマから脱れることが出來ると思つてゐた。然しさうぢやないね。それも大いに有るけれども、そればかりぢやないね。我々には利己的感情が餘りに多量にある。』
『然しそれは何うすることも出來ないぢやないか? 我々の罪ぢやない、時代の病氣だもの。』
『時代の病氣を共有してゐるといふことは、あらゆる意味に於いて我々の誇りとすべき事ぢやないね。僕が今の文學者の「近代人」がるのを嫌ひなのも其處だ。』
『無論さ。――僕の言つたのはさういふ意味ぢやない。何うかしたくつても何うもすることが出來ないといふだけだ。』
『出來ないと君は思ふかね?』
『出來ないぢやないか。我々が此の我々の時代から超逸しない限りは。――時代を超逸するといふのは、樗牛が墓の中へ持つて行つた夢だよ。』
『さうだ。あれは悲しい夢だね。――然し僕は君のやうに全く絶望してはゐないね。』
「絶望」といふ言葉は不思議な響を私の胸に傳へた。絶望! そんな言葉を此の男は用《つか》ふのか? 私はさう思つた。
 二人は暫らく默つてゐた。やがて私は、
『そんなら何うすれば可い?』
『何うと言つて、僕だつてさう確かな見込がついてるんぢやないさ。技師が橋の架替《かけかへ》の設計を立てる樣にはね。――然し考へて見給へ。利己といふ立場は實に苦しい立場だよ。これと意識する以上はこんな苦しい立場は無いね。さうだらう? つまり自分以外の一切を敵とする立場だものね。だから、周圍の人間のする事、言ふ事は、みんな自分に影響する。善にしろ、惡にしろ、必ず直接に影響するよ。先方が其の積りでなくつても此方の立場がそれだからね。そしてしよつちう氣の休まる時が無いんだ。まあ見給へ。利己的感情の熾《さか》んな者に限つて、周圍の景氣が自分に都合がよくなると直ぐ思ひ上る。それと反對に、少しでも自分を侵すやうな、氣に食はんことが有ると、急に氣が滅入つて下らない欝霽《うさは》らしでもやつてみたくなるんだね。そんな時は隨分向う見ずな事もするんだよ。――それや世の中にはさういふ人間は澤山有るがね。有るには有るけれども、大抵の人はそれを意識してゐないんだね。其の時、其の時の勝手な辯解で自分を欺いてるん
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