、高橋はそれつきり口を噤《つぐ》んで、默つて私の顏を見てゐる。爲方がないから、
『此間|内《うち》の新聞の社説に、電車會社が營業物件を虐待するつて書いてあつたが、僕等だつて同じぢやないか? 朝の九時から來て、第二版の締切までゐると、彼是十時間からの勤務だ。』
『可いさ。外交に出たら、家へ寄つて緩《ゆつく》り晝寢をして來れば同じ事《こつ》た。』
これが彼の答へだつた。
劍持は探りでも入れるやうに、
『僕は又、高橋君が何とか意見を陳《の》べてくれるぢやらうと思うとつた。』
『僕が? 僕はそんな柄ぢやない。なあに、これも矢つ張り資本|主《ぬし》と勞働者の關係さ。一方は成るべく樂をしようとするし、一方はなるべく多く働かせようとするし……この社に限つたことぢやないからねえ。どれ、行つて辨當でも食はう。』
そして入口の方へ歩き出しながら、獨語のやうに、『金の無い者は何處でも敗けてゐるさ。』
後には、三人妙な目附をして顏を見合はせた。
が、其の日の夕方、劍持と私と連れ立つて歸る時、玄關まで來ると、一足先に歸つた筈の高橋が便所から出て來た。
『何うだ飮みに行かんか?』
突然に私はさう言つた。すると、
『さうだね、可いね。』と向うも直ぐ答へた。
一緒に歩きながら、高橋の樣子は、何となくさういふ機會を得たことを喜んでゐるやうにも見えた。そして彼は、少し飮んでも赤くなる癖に、いくら飮んでも平生と餘り違つたところを見せない男だつた。飮んでは話し、飮んでは話しして、私などは二度ばかりも醉ひが醒めかけた。それでも話は盡きなかつた。いざ歸らうとなつた時は、もう夜が大分更けて、例の池袋の田舍にゐる高橋には、乘つて行くべき、汽車も、電車もない時刻だつた。
『また社の宿直の厄介になるかな。』と彼は事も無げに言つた。家へ歸らぬことを少しも氣にしてゐないやうな樣子だつた。
『僕ん處へ行かんか?』
『泊《と》めるか?』
『泊めるとも。』
『よし行く。』
其の晩彼は遂々《とう/\》私の家に泊つた。
二
かくして、高橋彦太郎は我々の一團に入つて來た。いや、入つて來たといふは適切でない。此方からちよつかいを出して引き入れて了つた。
先づ私の目に附いたのは、それから高橋の樣子の何といふことなしに欣々としてゐることであつた。何處が何うと取り立てて言ふほどの事はなかつたが、(又それほど感情を表す男ではなかつたが、)同じ膝頭を抱いて天井を眺めてゐるにしても、其の顏の何處かに、世の中に張り合ひが出來たとでもいふやうな表情が隱れてゐた。私はそれを、或る探險家が知らぬ土地に踏み込んでゐて、此處を斯う行けば彼處へ出るといふ樣な見當をつけて、そしてそれに相違のないことを竊《そつ》と確めた上で、一人で樂しんでゐるやうなものだらうと思つてゐた。餘りそぐはぬ比喩のやうだが、その頃、高橋が我々と一緒に飮みに行つて、剩《おま》けに私の家へまで泊まつたのを、彼自身にしては屹度何か探險をするやうな心持だつたらうと私は忖度してゐたのだ。
が、そんな樣子は、一月か、二月の間には何時となく消えて無くなつて了つた。これは、私がそんな樣子を見慣れて了つたのか、乃至は高橋自身そんな氣持に慣れて了つたのか、其處はよく解らない。兎に角、見たところ以前の高橋に還つて了つた。然しそれかと言つて、我々と彼との間に出來た新らしい關係には、これと言ふ變化も來なかつた。と言ふよりも、初めは互に保留してゐた多少の遠慮も、日を經るとともに無くなつて行つた。そして、先づ最初に此の新入者に對する隔意を失つたのは、斯く言ふ私だつた。私は何故か高橋が好きだつた。
親しくなるにつれて、高橋の色々の性癖が我々の目に附いた。それは大體に於いて、今までに我々の見、若くは想像してゐたところと違はなかつた。彼は孤獨を愛する男だつた。長い間不遇の境地に鬪つて來た人といふ趣きが何處かにあつた。彼は路を歩くにも一人の方を好んだ。そして、無論餘り人を訪問する方ではなかつた。
が、時とすると、二晩も、三晩も續けて訪ねて來ることもあつた。さういふ時彼は何か知ら求めてゐた。たゞ其の何であるかゞ我々に解らぬ場合が多かつた。それから彼は、平生の口の寡いに似合はず、よく調子よく喋り出すことがあつた。そしてそれには隨分變つた特徴があつた。
例へば我々が、我々の從事してゐる新聞の紙面を如何に改良すべきか、又は社會部の組織を如何に改造すべきかに就て、各自《めい/\》意見を言ひ合ふとする。高橋も初めはちよくちよく口を利いてゐるが、何時とはなしに口を噤んで了つて、煙草をぷかぷか吹かしながら、話す者の顏を交る交る無遠慮に眺めてゐるか、さもなければ、ごろりと仰向けに臥て了ふ。この仰向けに臥て、聞くでもなく、聞かぬでもなく人の話を聞いて居るのが彼の
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