て、ただ一人垢染みた白地の單衣を着た、苦學生らしい若い男の隅の方に腰掛けてゐるのを見出した。「秋だ!」私は思つた。――實際、其の男は私が其の日出會つた白地の單衣を着たただ一人の男だつた。私はそれとなく、此の四、五日の間に、東京中の家といふ家で、申し合せたやうに、夏の着物を疊んで藏つて了つたことを感じた。
其の日私は、何の事ともなく自分の爲事を早く切り上げて、そして早々《さつさ》と歸つて來た。恰度方々の役所の退ける時刻だつた。
『貴方は龜山さんぢやありませんか?』
訛りのある、寂びた聲が電車の中でさう言つた。
『ああ、△△君でしたか!』私も言つた。彼は私の舊友の一人だつた。然も餘り好まない舊友の一人だつた。然し其の時、私は少しも昔の感情を思出さなかつた。そしてただ何がなしに懷しかつた。
『三、四年振りでしたねえ。矢つ張りずつと彼時《あれ》から東京でしたか?』私は言つた。
『は。ずつと此方《こつち》に。遂々《とう/\》腰辨になつて了ひました。』
恰度私の隣の席が空いたので、二人は竝んで腰を掛けた。平たい、表情の無い顏、厚い脣、黒い毛蟲のやうな眉……其れ等の一々が少しも昔と違つてゐないのを、私は何故か嬉しいやうに見た。そればかりではない。彼の白襯衣《ホワイト・シャツ》の汚れ目も、また周圍《あたり》構はぬ高聲で話しかける地方人の癖をも、私は決して不快に思はなかつた。二人は思出す儘に四、五人の舊友に就いて語つた。そして彼は、長く逢はずに、且つ私の方では思出すこともなく過してゐたに拘らず、よく私の近況を知つてゐた。
『先月でしたか、靜岡の製紙工場を視察にいらしたやうでしたね?』そのやうに彼は言つた。
『ええ。』私は輕く笑つた。彼はT――新聞の讀者だつた。
家へ歸つて來ると、何の理由もなく私は机の邊を片附けた。そして座蒲團から、縁先に吊した日避けの簾まで、すべて夏の物を藏はせて了つた。嬉しいやうな、新しい氣持があつた。さうして置いて、私は其の夜、新橋で別れて以來初めての手紙を、病友松永の爲に書いた。
底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日発行
※底本の表記に疑問がある箇所は、「現代日本文学全集 第四十五篇」改造社、1928(昭和3)年7月10日発行を参照して正し、その箇所に注記を加えました。
※「廻」と「※[#「廴+囘」
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