ながら其擧止と顏貌とに表はれた表情の決して上品でない、四十位の一婦人が、一枚の乘換切符を車掌に示して、更に次の乘換の切符を請求した。
『これは可けません、これは廣小路の乘換ぢやありませんか?』
『おや、さうですか? 私は江戸川へ行くんですから、須田町で乘換へたつて可《いゝ》ぢやありませんか?」
『須田町から※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つても行けますが、然し此の切符は廣小路の乘換に切つてありますから、此方へ乘ると無効になります。』
『ですけども行先は江戸川に切つて有るでせう?』
『行先は江戸川でも乘換は廣小路です。』
『同じ江戸川へ行くんなら、何處で乘換へたつて可《いゝ》ぢやありませんか?』
『さうは行きません。切符の裏にちやんと書いてあります。』
『それぢやあこれは無効ですか? まあ何て私は馬鹿だらう、田舍者みたいに電車賃を二度取りされてさ!』
『誰も二度取りするたあ言ひやしません。切符は無効にや無効ですけれど、貴方が知らずにお間違ひになつたのですから、切符は別に須田町からにして切つて上げます。』
『いいえ要りません。』貴婦人はさう言つた。犬が尾を踏まれて噛み付く時のやうな調子だつた。『私が間違つたのが惡いのですから、別に買ひます。』
そして帶の間から襤褸錦《つゞれにしき》の紙入を取出し、『まあ、細《こま》かいのが無かつたかしら。』と言ひながら、態とらしく幾枚かの紙幣の折り重ねたのを出して、紙入の中を覗いた。
『そんな事をなさらなくても可いんです。切符は上げると言つてるのですから。』言ひながら車掌は新らしい乘換切符に鋏を入れた。
『いゝえ可う御座んす。私が惡いのですから。』と貴婦人は復言つた。
幾度の推問答の末に、車掌は今切つた乘換切符を口に啣へて、職務に服從する恐ろしい忍耐力を顏に表しながら、貴婦人の爲に新らしく往復切符を切らされた。
そればかりでは濟まなかつた。車掌が無効に歸した先《せん》の乘換切符を其儘持つて行かうとすると、貴婦人は執念くも呼び止めて、
『それは私が貰つて行きます。こんな目に遭つたのは私は始めてゞすから、記念に貰つて行きます。家《うち》の女中共に話して聞かせる時の種にもなりますから。』と言つた。
『不用になつた乘換切符は車掌が頂くのが規則です。』
『車掌さん方の規則は私は知らないけれど、用に立たない物なら一枚位可いぢやありま
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