い實感を承認することが出來なかつたであらうか。さう考へた時、私は前に言つた「こん畜生」の場合を思ひ合せぬ譯に行かなかつた。評者は屹度歌といふものに就いて或狹い既成概念《きせいがいねん》を有つてる人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時となく歌は斯ういふもの、斯くあるべきものといふ保守的な概念を形成《かたづく》つてさうしてそれに捉はれてゐる人に違ひない。其處へ生垣の隙間から飼犬の飛び出したやうに、小便といふ言葉が不意に飛び出して來て、その保守的な、苟守的《こうあんてき》な既成概念の袖にむづと噛み着いたのだ。然し飼犬が主人の歸りを喜んで飛び着くに何の不思議もない如く、我々の平生使つてゐる言葉が我々の歌に入つて來たとても何も吃驚《びつくり》するには當らないではないか。
○私の「やとばかり桂首相に手とられし夢みて覺めぬ秋の夜の二時」といふ歌も或雜誌で土岐君の小便の歌と同じ運命に會つた。尤もこの歌は、同じく實感の基礎を有しながら桂首相を夢に見るといふ極稀れなる事實を内容に取入れてあるだけに、言換へれば萬人の同感を引くべく餘りに限定された内容を歌つてあるだけに、小便の歌ほど歌とし
前へ
次へ
全14ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング