に蓄へてゐない人である。漫然として教科書にある丈の字句を生徒に教へ、漫然として自分の境遇の憐れな事を是認し、漫然として今後大に歌を作らうと思つてる人である。未だ嘗て自分の心内乃至身邊に起る事物に對して、その根ざす處如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考へて見たことのない人である。日毎に新聞を讀みながらも、我々の心を後から/\と急がせて、日毎に新しく展開して來る時代の眞相に對して何の切實な興味をも有つてゐない人である。私はこの人の一生に快よく口を開いて笑ふ機會が、私のそれよりも屹度多いだらうと思つた。
○翌日出社した時は私の頭にもう某君の事は無かつた。さうして前の日と同じ色の封筒に同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本當に毎日投書する積なのかと心持眼を大きくして見た。其翌日も來た。其翌日も來た。ある時は投函《とうかん》の時間が遲れたかして一日置いての次の日に二通一緒に來たこともあつた。「また來た。」私は何時もさう思つた。意地惡い事ではあるが、私はこの人が下らない努力に何時まで飽きずにゐられるかに興味《きようみ》を有つて、それとはなしに毎日待つてゐた。
○それが確七
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