壇の設けられたので空谷の跫音[#「空谷の跫音」に白三角傍点]と思つたといふ事、近頃は新聞が着くと先づ第一に歌壇を見るといふ事、就いては今後自分も全力を擧げて歌を研究する[#「全力を擧げて歌を研究する」に白三角傍点]積だから宜しく頼む。今日から毎日必ず一通づつ[#「毎日必ず一通づつ」に白三角傍点]投書するといふ事が書いてあつた。
○此の手紙が宛名人たる私の心に惹起した結果は、蓋し某君の夢にも想はなかつた所であらうと思ふ。何故なれば、私はこれを讀んでしまつた時、私の心に明かに一種の反感の起つてゐる事を發見したからである。詩や歌や乃至は其の外の文學にたづさはる事を、人間の他の諸々の活動よりも何か格段に貴い事のやうに思ふ迷信――それは何時如何なる人の口から出るにしても私の心に或反感を呼び起さずに濟んだことはない。「歌を作ることを何か偉い事でもするやうに思つてる、莫迦《ばか》な奴だ。」私はさう思つた。さうして又成程自ら言ふ如く憐れなる小學教師[#「憐れなる小學教師」に白三角傍点]に違ひないと思つた。手紙には假名違ひも文法の違ひもあつた。
○然しその反感も直ぐと引込まねばならなかつた。「羨ましい人だ。」といふやうな感じが輕く横合から流れて來た爲めである。此の人は自分で自分を「憐れなる」と呼んでゐるが、如何に憐れで、如何にして憐れであるかに就いて眞面目に考へたことのない人、寧ろさういふ考へ方をしない質の人であることは、自分が不滿足なる境遇《きやうぐう》に在りながら全力を擧げて歌を研究しようなどと言つてゐる事、しかも其歌の極平凡な叙事叙景の歌に過ぎない事、さうして他の營々として刻苦してゐる村人を趣味を解せぬ者と嘲《あざけ》つて僅に喜んでゐるらしい事などに依つて解つた。己の爲る事、言ふ事、考へる事に對して、それを爲ながら、言ひながら、考へながら常に一々反省せずにゐられぬ心、何事にまれ正面に其問題に立向つて底の底まで究めようとせずにゐられぬ心、日毎々々自分自身からも世の中からも色々の不合理と矛盾とを發見して、さうして其の發見によつて却て益自分自身の生活に不合理と矛盾とを深くして行く心――さういふ心を持たぬ人に對する羨みの感は私のよく經驗する所のものであつた。
○私はとある田舍の小學校の宿直室にごろ/\してゐる一人の年若き准訓導を想像して見た。その人は眞の人を怒らせるやうな惡口を一つも胸に蓄へてゐない人である。漫然として教科書にある丈の字句を生徒に教へ、漫然として自分の境遇の憐れな事を是認し、漫然として今後大に歌を作らうと思つてる人である。未だ嘗て自分の心内乃至身邊に起る事物に對して、その根ざす處如何に深く、その及ぼす所如何に遠きかを考へて見たことのない人である。日毎に新聞を讀みながらも、我々の心を後から/\と急がせて、日毎に新しく展開して來る時代の眞相に對して何の切實な興味をも有つてゐない人である。私はこの人の一生に快よく口を開いて笑ふ機會が、私のそれよりも屹度多いだらうと思つた。
○翌日出社した時は私の頭にもう某君の事は無かつた。さうして前の日と同じ色の封筒に同じ名を書いた一封を他の投書の間に見付けた時、私はこの人が本當に毎日投書する積なのかと心持眼を大きくして見た。其翌日も來た。其翌日も來た。ある時は投函《とうかん》の時間が遲れたかして一日置いての次の日に二通一緒に來たこともあつた。「また來た。」私は何時もさう思つた。意地惡い事ではあるが、私はこの人が下らない努力に何時まで飽きずにゐられるかに興味《きようみ》を有つて、それとはなしに毎日待つてゐた。
○それが確七日か八日の間續いた。或日私は、「とう/\飽きたな。」と思つた。その次の日も來なかつた。さうして其後既に二箇月、私は再び某君の墨の薄い肩上りの字を見る機會を得ない。來ただけの歌は隨分夥しい數に上つたが、ただ所謂歌になりそうな景物を漫然と三十一字の形に表しただけで、新聞に載せる程のものは殆どなかつた。
○私はこの事を書いて來て、其後某君は何うしてゐるだらうと思つた。矢張新聞が着けばただ文藝欄や歌壇や小説許りに興味を有つて讀んでゐるだらうか。漫然と歌を作り出して漫然と罷めてしまつた如く、更に又漫然と何事かを始めてゐるだらうか。私は思ふ。若し某君にして唯一つの事、例へば自分で自分を憐れだといつた事に就いてゞも、その如何に又如何にして然るかを正面に立向つて考へて、さうして其處に或動かすべからざる隱れたる事實を承認《しようにん》する時、其某君の歌は自からにして生氣ある人間の歌[#「人間の歌」に白三角傍点]になるであらうと。
(三)
○うつかりしながら家の前まで歩いて來た時、出し拔けに飼ひ犬に飛着かれて、「あゝ喫驚した。こん畜生!」と思はず知らず口に出す――といふやうな例はよく有ること
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング