五とか七とかいう調子を失ってるのは事実じゃないか。
A 「いかにさびしき夜なるぞや」「なんてさびしい晩だろう」どっちも七五調じゃないか。
B それは極《きわ》めて稀《まれ》な例だ。
A 昔の人は五七調や七五調でばかり物を言っていたと思うのか。莫迦。
B これでも賢いぜ。
A とはいうものの、五と七がだんだん乱れて来てるのは事実だね。五が六に延び、七が八に延びている。そんならそれで歌にも字あまりを使えば済むことだ。自分が今まで勝手に古い言葉を使って来ていて、今になって不便だもないじゃないか。なるべく現代の言葉に近い言葉を使って、それで三十一字に纏《まとま》りかねたら字あまりにするさ。それで出来なけれあ言葉や形が古いんでなくって頭が古いんだ。
B それもそうだね。
A のみならず、五も七も更に二とか三とか四とかにまだまだ分解することが出来る。歌の調子はまだまだ複雑になり得る余地がある。昔は何日《いつ》の間にか五七五、七七と二行に書くことになっていたのを、明治になってから一本に書くことになった。今度はあれを壊《こわ》すんだね。歌には一首一首|各《おのおの》異った調子がある筈《はず》だから、一首一首別なわけ方で何行かに書くことにするんだね。
B そうすると歌の前途はなかなか多望なことになるなあ。
A 人は歌の形は小さくて不便だというが、おれは小さいから却《かえ》って便利だと思っている。そうじゃないか。人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至《ないし》は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂《つぎほ》がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人はそれを軽蔑《けいべつ》している。軽蔑しないまでも殆《ほとん》ど無関心にエスケープしている。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。
B 待てよ。ああそうか。一分は六十秒なりの論法だね。
A そうさ。一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇《てまひま》のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持ってるということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。(間)おれはいのち[#「いのち」に傍点]を愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。(間)しかしその歌も滅亡する。理窟からでなく内部から滅亡する。しかしそれはまだまだ早く滅亡すれば可いと思うがまだまだだ。(間)日本はまだ三分の一だ。
B いのち[#「いのち」に傍点]を愛するってのは可いね。君は君のいのち[#「いのち」に傍点]を愛して歌を作り、おれはおれのいのち[#「いのち」に傍点]を愛してうまい物を食ってあるく。似たね。
A (間)おれはしかし、本当のところはおれに歌なんか作らせたくない。
B どういう意味だ。君はやっぱり歌人だよ。歌人だって可いじゃないか。しっかりやるさ。
A おれはおれに歌を作らせるよりも、もっと深くおれを愛している。
B 解らんな。
A 解らんかな。(間)しかしこれは言葉でいうと極くつまらんことになる。
B 歌のような小さいものに全生命を託することが出来ないというのか。
A おれは初めから歌に全生命を託そうと思ったことなんかない。(間)何にだって全生命を託することが出来るもんか。(間)おれはおれを愛してはいるが、そのおれ自身だってあまり信用してはいない。
B (やや突然に)おい、飯食いに行かんか。(間、独語するように)おれも腹のへった時はそんな気持のすることがあるなあ。
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底本:「石川啄木集(下)」新潮文庫、新潮社
1950(昭和25)年7月15日発行
1970(昭和45)年6月15日25刷改版
1991(平成3)年3月5日48刷
底本の親本:「啄木全集」筑摩書房
1967(昭和42)年〜1968(昭和43)年
入力:番 裕子
校正:鈴木厚司
2004年8月11日作成
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