枕邊に懸けてある温度表を見ても、赤鉛筆や青鉛筆の線と星とが大抵赤線の下に少しづゝの曲折を示してゐるに過ぎない。
 郁雨君足下。君も若し萬一不幸にして予と共に病院を休息所とするの、かなしき願望を起さねばならぬことが今後にあるとするならば、その時はよろしく予と共にあまり重くない慢性腹膜炎を病むことにすべしである。これほど暢氣な、さうして比較的長い間休息することの出來る病氣は恐らく外にないだらうと思ふ。
 若し強いて予の現在の生活から動かすべからざる病人の證據を擧げるならば、それは予が他の多くの病人と同じやうに病院の寢臺の上にゐるといふことである。さうして一定の時間に藥をのまねばならぬといふことである。それから來る人も/\予に對して病人扱ひをするといふことである。日に二人か三人は缺かさずにやつて來る彼等は、決してそのすべてがお互ひに知つた同志ではないのに何れも何れも相談したやうに餘り長居をしない。さうして歸つて行く時は、恰度何かの合言葉ででもあるかのやうに色々の特有の聲を以て「お大事に」と云つて行く。彼等の中には、平生予が朝寢をしてゐる所へズン/\押込んで來て「もう起き給へ/\。」と言つた手合もある。それが此處へ來ると、寢臺の上に起き上らうとする予を手を以て制しながら、眞面目な顏をして「寢てゐ給へ/\。」と言ふ。予はさういふ來訪者に對しては、わざと元氣な聲を出して「病氣の福音」を説いてやることにしてゐる。――かうした一種のシニツクな心持は予自身に於ても決して餘り珍重してゐないに拘らず何時かしら殆ど予の第二の天性の如くなつて來てゐるのである。
 などと御託《ごたく》をならべたものの、予は遂に矢つぱり病人に違ひない。これだけ書いてもう額が少し汗ばんで來た。

     三

 郁雨君足下
 人間の悲しい横着……證據により、理窟によつて、その事のあり得るを知り、乃至はあるを認めながら、猶且つそれを苦痛その他の感じとして直接に經驗しないうちは、それを切實に信じ得ない、寧ろ信じようとしない人間の悲しい横着……に就いて、予は入院以來幾囘となく考へを費してみた。さうして自分自身に對して恥ぢた。
 例へば、腹の異常に膨れた事、その腹の爲に内臟が晝となく夜となく壓迫を受けて、殆んど毎晩恐ろしい夢を見續けた事、寢汗の出た事、三時間も續けて仕事をするか話をすれば、つひぞ覺えたことの無い深い疲勞に襲はれて、何處か人のゐない處へ行つて横になりたいやうな氣分になつた事などによつて、予はよく自分の健康の著るしく均整を失してゐることを知つてゐたに拘らず、「然し痛くない」といふ極めて無力なる理由によつて、一人の友人が來てこれから大學病院に行かうと居催促するまでは、まだ眞に醫者にかゝらうとする心を起さずに居た。また同じ理由によつて、既に診察を受けた後も自分の病氣の一寸した服藥位では癒らぬ性質のものであるを知りながら、やつぱり自分で自分を病人と呼ぶことが出來なかつた。
 かういふ事は、しかしながら、決して予の病氣についてのみではなかつたのである。考へれば考へる程、予の半生は殆んどこの悲しい横着の連續であつたかの如く見えた。予は嘗て誤つた生活をしてゐて、その爲に始終人と自分とを欺かねばならぬ苦しみを味はひながら、猶且つその生活をどん底まで推し詰めて、何うにも斯うにも動きのとれなくなるまでは、その苦しみの根源に向つて赤裸々なる批評を加へることを爲しかねてゐた。それは餘程以前の事であるが、この近い三年許りの間も、常に自分の思想と實生活との間の矛盾撞着に惱まされながら、猶且つその矛盾撞着が稍々大なる一つの悲劇として事實に現はれてくるまでは、その痛ましき二重生活に對する自分の根本意識を定めかねてゐたのである。さうしてその悲しむべき横着によつて知らず識らずの間に予の享けた損失は、殆んど測るべからざるものであつた。
 更に最近の一つの例を引けば、予は予の腹に水がたまつたといふ事を、診察を受ける前から多分さうだらうと自分でも想像してゐたに拘らず、入院後第一囘の手術を受けて、トラカルの護謨《ゴム》の管から際限もなく流れ落つる濃黄色の液體を目撃するまでは、確かにさうと信じかねてゐた。

     四

 それは予が予の身體と重い腹とを青山内科第十八號室の眞白な寢臺の上に持ち運んでから四日目の事であつた。晝飯が濟むと看護婦とその二人の助手とはセツセと色々の器械を予の室に持ち込んだ。さうして看護婦は「今日は貴下のお腹の水を取るのよ。」と言つて、自分の仕事の一つ増えたのを喜ぶやうに悦々《いそ/\》として立働いてゐる。檢温器と聽診器との外には、機械といふものを何一つ身體に當てられた事のない予も、それを聞くと何か知ら嬉しいやうな氣になつた。やがて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]診の時間にな
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング