かつた。「此處で馬を下《お》りて下さい。」と馬の口を取つて來た男が言つた。「いやだ。」と予は答へた。「下りないとお爲になりませんよ。」と男がまた言つた。予はその時、この板敷の廊下に拍車の音を立てゝ歩いたら氣持が可からうと思つた。さうして馬から飛び下りた。それから後のところは一寸不明である。やがて予はこの第五號室、(予は數日前に十八號室から移つたのだ。)の前の廊下に連れて來られた。と、扉を明けて朝日新聞の肥つた會計が出て來て、「今すぐ死刑をやりますから少し待つてゐて下さい。」と言ふ。「何處でやるんです。」と聞くと、「この突當りの室です。」と答へて扉《ドア》を閉めた。突當りの室では予即ちナポレオンの死刑の準備をしてゐると見えて、五六人の看護婦が忙がしく出つ入りつしてゐた。(それが皆名も顏も知つた看護婦だから面白い。)そのうちに看護婦が二人がゝりで一つの大きい金盥を持ち込むのが見えた。「あゝ、あれで俺の首を洗ふのだ。」と思ふと予は急に死ぬのがいやになつた。せめて五時間(何から割出したか解らない。)でも生き延びたいと思つた。で、傍らに立つてゐる男に、可成ナポレオンらしく聞えるやうな威嚴を以て、「俺は俺の死ぬ前に、俺の一生の意義を考へてみなければならん、何處か人のゐない室で考へたいから、お前これから受持の醫者へ行つて都合をきいて來てくれ。」と言つた。男は、「ハイ直ぐ歸つて來ますからお逃げになつてはいけませんよ。」と言つて、後を見い/\廊下を曲つて行つた。逃げるなら今だと思つて後先を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐると、運惡く朝日新聞の會計がまた扉を開けた。そこで予はテレ隱しに煙草をのまうと思つて袂を探したが、無い。無い道理、予は入院以來着てゐる袖の開いた寢卷を着てゐたのである。それから後は何うなつたか解らない。
君、ナポレオンが死ぬのをいやがつたり、逃げ出さうと思つた所が、いかにも人間らしくて面白いではないか。
終
郁雨君足下。
俄に來た熱が予の體内の元氣を燃した。醫者は予の一切の自由を取りあげた。「寢て居て動くな」「新聞を讀んぢやあいけない」と云ふ。もう彼是一週間になるが、まだ熱が下らない。かくて予のこの手紙は不意にしまひにならねばならなかつた。
彼は馬鹿である。彼は平生多くの人と多くの事物とを輕蔑して居た。同時に自分自身をも少しも尊
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