前の喧嘩好きな性分から急に赫となって、私に脅迫を試みているのだ。
万力《まんりき》を思わせるような真赤な大鋏。それはどんな強い敵をも威しつけるのに充分な武器であった。
そんな恐ろしい武器を揮って、敵を脅かすことに馴れた蟹は、持ち前の怒りっぽい、気短かな性分から、絶えず自分の周囲に敵を作り、絶えずそれがために焦立っているのではなかろうか。
その気持は私にもよく分る。すべて人間の魂の物蔭には、蟹が一匹ずつかくれていて、それが皆赤い爪を持っているのだ。
私がこんなことを思っていると、蟹は横柄な足どりで、横這いに草のなかに姿を隠してしまった。
2
海に棲むものに擁剣蟹《がざみ》がいる。物もあろうに太陽を敵として、その光明を怖れているこの蟹は、昼間は海底の砂にもぐって、夜にならなければその姿を現わそうとしない。
擁剣蟹は、脚の附け際の肉がうまいので知られているが、獲られた日によってひどく肉の肥痩が異うことがある。それに気づいた私は、いつだったか出入の魚屋にその理由を訊いたことがあった。魚屋はその荷籠から刺《とげ》のある甲羅を被《き》たこの蟹をつまみ出しながら言った。
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