、その友歐陽修のために頼まれて、集古目録の序に筆を揮ったことがあった。その返礼として鼠鬚筆《そしゅひつ》数本と、銅緑の筆架と、好物の茶と、恵山泉の名水幾瓶とを歐陽修から贈って来たものだ。蔡襄はそれを見て、
「潤筆料としては、少しあっさりし過ぎてるようだ。しかし、俗でなくて何よりだ。」
といって笑ったそうだが、その恵山泉の水で茶を煮ると、すっかりいい気になって、
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此泉何以珍
適与真茶遇
在物両清純
於予独得趣
…………
…………
[#ここで字下げ終わり]
と詩を作って歌ったということだ。

     4

 すべて茶を煮るには、炭加減と水の品とを吟味することが肝腎で、むかしの数寄者は何よりもこれに心をつかったものだ。わざわざ使を立てて、宇治橋の三の間の水を汲ませた風流も、こうした細かな吟味からのことだったが、大阪ではむかしから天王寺逢坂の水が茶にいいといって、一般に尚ばれたようだ。逢坂の水といえば、それについてこんな話が残っている。
 俳優二代目嵐小六の家に、ながく奉公をしている女中の父親で、女房に死別れて娘と一緒に身を寄せているのがあった。小六はこの男が仕事もな
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