阨ィ全体の重みを支えなければならぬだけに、秀れた茶壺の捻り返しを見るような、力と鮮やかさとを味わされることが多い。この臍を起点として、瓜の肌に沿うて流れる輪廓の線は、真桑瓜や雀瓜のように、こぢんまりと恰好よく纏っているのもあるが、どうかすると、長糸瓜のように、線と線とが互に平行したまま、無謀にも七尺あまりも走った後、やっと思い出したように、いくらか尻膨れになってつづまりをつけるのや、または冬瓜や西瓜のように、図外れに大きな弧線を描いて、どうにも始末におえなくなっているのがある。そのなげやりに近いまでの胆の太さは、芸術家と実行者とを、愛と放棄とを、両つながらその意図に有っている自然翁でなくては、とても出来ない放れ業である。
いつだったか、元末の画家呂敬甫の『瓜虫図』の写しを見たことがあった。長い蔓に生った大きな青い瓜に、火の雫のような赤蜻蛉を配ったものだった。また小栗宗湛の『青瓜図』をも見たことがあった。蔓につながった二つの大きな瓜を横たえ、それに二疋の螳螂を添えたもので、瓜の大きさと葉の緑とが、いまだに記憶に残っている。二つの絵に共通の点は、こうした自然物に対する深い愛と、大きな瓜に
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