ツけて、あたりを見廻すと、それは娘さんのせいだとわかった。娘さんはそっと室から滑り出た。少年は救いを求めるように Alcott 女史の方を見た。女史は脣に指を押しあてて、じっとこちらを見つめていた。黙っていよという合図なのだ。少年はすっかり弱らされた。
暫くすると、老文豪は静かに窓際を離れた。そして前を通るとき、ちょっと少年に会釈をして自分の椅子に腰を下した。二つの悲しそうな眼は、おのずと前にいる少年の顔に注がれた。さきがたからつき穂がなくて困りきっていたこの小さな客人は、もう黙っていられなくなったように思った。
少年はここの主人の親友 Carlyle のことを語り出した。そしてこの人の手紙があったら、一通いただけないかと言った。
Carlyle の名を聞くと、主人は不思議そうに眼をあげた。そしてゆっくりした調子で、
「Carlyle かね。そう、あの男は今朝ここにいましたよ。あすの朝もまたやって来るでしょう。」
と、まるで子供のように他愛もなく言っていたが、急に言葉を改めて、
「何でしたかね、君の御用というのは――」
少年は自分の願いを繰返した。
「そうか。それじゃ捜してあげよう。」主人は打って変って快活になった。「この机の抽斗《ひきだし》には、あの男の手紙がどっさりあるはずだから。」
それを聞くと、Alcott 女史の潤んだ眼は喜びに輝いた。口もとには抑えきれぬ微笑の影さえ漂った。
室の容子ががらりと変って来た。老文豪は手紙と書類とが一杯詰っている机の抽斗をあけて、中を捜し出した。そしてときどき眼を上げて少年の顔を見たが、その眼はやさしい情味に溢れていた。少年がわざわざそのために紐育《ニューヨーク》から出かけて来たことを話すと、「そうか。」と言って、明るく笑っていた。
老文豪は、少年が期待したような何物をも捜し出さないで、そろそろ机の抽斗を閉めにかかった。そしてまた低声で口笛を吹きながら、不思議そうにじろじろと二人の顔を見まわした。
少年はこの上長くはもう居られまいと思った。のちのちの記念になるものが何か一つ欲しかった。彼はポケットから帳面を取出した。
「先生。これに一つお名前を書いていただけませんでしょうか。」
「名前。」
「ええ、どうぞ。」少年は言った。「先生のお名前の Ralph Waldo Emerson ってえのを。」
その名前を聞いても、文豪は何とも感じないらしかった。
「書いて欲しいと思う名前を書きつけて御覧。すれば、私がそれを見て写すから。」
少年は自分の耳を信ずることが出来なかった。だが、彼はペンを取上げて書いた。―― Ralph Waldo Emerson, Concord; November 22, 1881 ――と。
老文豪は、それを見て悲しそうに言った。
「いや、有難う。」
それから彼はペンを取上げて、一字ずつゆっくりとお手本通りに自分の名前を書き写した。そして所書きの辺まで来ると、仕事が余り難しいので、もじもじするらしく見えたが、それでもまた一字一字ぼつぼつと写し出した。所書きには、書き誤りが一つ消してあった。やっと書き写してしまうと、老文豪は疲れたようにペンを下において、帳面を持主に返した。
少年はそれをポケットに蔵《しま》い込んだ。老文豪の眼が、机の上に取り残された先刻《さっき》少年が書いたお手本の紙片に落ると、急に晴やかな笑がその顔に浮んで来た。
「私の名前が書いて欲しいのだね。承知した。何か帳面でもお持ちかい。」
びっくりさせられた少年は、機械的にも一度ポケットから帳面を取出した。文豪は手ばやく器用に紙をめくって、ペンを取上げたかと思うと、紙片を側におしのけたまま、一気にさっと註文通りの文句を書き上げてしまった。
二人が礼を言って、暇乞いをしようとすると、主人の老文豪はにこにこしながら立ち上って、
「まだ早いじゃないか。こちらにいるうちに、も一度訪ねて来ないかね。」
と、愛想を言った。そして少年の手を取って握手したが、それは心からの温い力の籠ったものだった。
「往くときと、来たときと、こんなに気持の違うのは初めてだ。」
少年は子供心にそう思った。
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盗まれぬように
1
世のなかに茶人ほど器物を尚ぶものはあるまい。利休は茶の精神は佗と寂との二つにある。価の高い器物を愛するのは、その心が利慾を思うからだ。「欠けたる摺鉢にても、時の間に合ふを、茶道の本意。」だといった。本阿弥光悦は、器物の貴いものは、過って取毀したときに、誰でもが気持よく思わないものだ。それを思うと、器は粗末な方がいいようだといって、老年になって鷹ケ峰に閑居するときには、茶器の立派なものは、それぞれ知人に分けて、自分には粗末なもののみを持って往ったということ
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