チたよ。日光山に住んでいる……」雨蛙は自分の師匠の名を自慢そうに言って聞かせました。
「それじゃない。もっと外にもあるだろう。」
「あるとも。俳句の上手な一茶という男も知ってるよ。」
「その男はどこで知ったのだ。」
蝸牛は持ち重りのする背《せな》の家を揺ぶってみました。家のまわりから雨の雫が落ちかかりました。
「信濃路《しなのじ》の小さな田舎でだったよ。おれはその頃将監さんに仕込まれた咽喉でもって旅芸人を稼いでいたのだ。柏原という村へ来て、くたびれ休めにそこにあった小屋の縁側に腰をかけたものだ。気がつくと、暗い家のなかに貧乏くさい男が、じっとわしを見つめているじゃないか。気味が悪かったものだから、おれも苦りきっていてやったよ。すると、その男がうめくように一句|詠《よ》むじゃないか。
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われを見て苦い顔する蛙かな
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といってね。」
「へえ、変に気のひがんだ奴だな。」
「そうだよ。実際気のひがんだ奴らしかった。」雨蛙はまた話をつづけました。「お金を貸せとでも言われたら困ると思って、おれはそこそこに逃げ出しちゃった。すると貧乏爺《びんぼうおやじ》め、追っかけるようにまた一句投げつけるじゃないか。
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薄縁《うすべり》に尿《いばり》して逃る蛙かな
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といってね。相手怖さからおれが縁側にうっかり持病の小便をもらしたのを見つかったんだね。」
雨蛙は申訳がなさそうに滑《すべ》っこい頭をかきました。
「は、は、は、は。こいつは笑わせるよ。は、は、は。」蝸牛はたまらぬように笑いこけました。その拍子に雨除け眼鏡があぶなくはずれかかろうとしたのをやっともとへ直しながら、「一茶という奴、おかしな野郎だな。だが、もっと外にもあるはずだが……たしか小野道風とかいった……」
「小野道風……」雨蛙は忘れた名前をふるい出すように、二、三度頭を横にふりました。
「そんな人は知らないよ。ねっから記憶《おぼえ》がないようだ。」
「記憶《おぼえ》がないはずはない。あの人の名前をお前に忘れられたら、大変なことになる……」
蝸牛はこう言って、先刻従弟のなめくじに聞いたことを話して聞かせました。
それは小野道風といった名高い書家が、まだ修業盛りの頃、どうも一向芸が上達しないので、すっかり嫌気がさして、雨の降るなかを、ぶらぶら散歩に出かけました。ふと見ると、途ばたのしだれ柳の下に雨蛙が一匹いて、枝に飛びつこうとしています。幾度か飛んで、幾度か落ちしている末、とうとう骨折のかいがあって、枝に縋りつきました、それを見た道風はすっかり感心しました。
「何事も努力だな。あの蛙がわしにそれを教えてくれたのだ。」
と思った彼は、家に帰ってから夜を日についで、みっちり勉強を重ねました。やがて書道のえらい大家になったという話なのでした。
「何でもその道風とやらは、公卿《くげ》の次男坊だそうだから、お冠でも着ていたかも知れない。そんな男の記憶はないかしら。」
「ある。ある。やっと思い出した。ずっと以前にそんな男に出あったことがあったっけ。」雨蛙はだしぬけに大きな声で叫びました。「だが、話が少しほんとうのことと違っているようだ。おれは何も道風とやらに教えようと思って、そんなに骨を折っていたわけじゃないよ。」
「これ。そんなに大きな声を……」
蝸牛は慌てて眼でとめました。そして声をひそめて、この頃世間の噂によると、人間は雨蛙が道風を感化して、すぐれた書家をつくり上げた手柄を記念するために、今度銅像を建てようと目論んでいるという事を話しました。
「そんな場合じゃないか。話が違っているなどと、余計な口をきくものじゃないよ。」
銅像――と聞くだけでも、雨蛙は喜びました。彼は秋になると、鋭い嘴《くちばし》をもった鵙《もず》がやって来て、自分たちを生捕りにして、樹の枝に磔《はりつけ》にするのを何よりも恐れていました。あの癇癪《かんしゃく》もちの小鳥が、赤銅張《しゃくどうば》りの自分をどうにもあつかいかねている姿を想像するのは、雨蛙にとってこの上もない満足でした。
「だが、おれは着物を着ていない。すっ裸だ。こんな姿《なり》でもいいのかしら。」
雨蛙は心のなかでそう思うと、急に自分の姿が恥かしくなって、両手をひろげてふくれた腹を隠しました。腹には臍《へそ》がありませんでした。
「おれには臍がない。困ったなあ。臍のない銅像を見ると、皆が噴き出すだろうからな。」
雨はざあざあ降りしきって来ました。雨蛙は両手で腹を抱えたまま、ずぶ濡れになって腑抜《ふぬ》けがしたようにぼんやりとそこに立っていました。
「えらい降りだな。」蝸牛はどうかすると、滑り落ちそうな無花果の葉っぱをしっかりとつかまえました。「おい、お
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