カれて、摩訶不思議な力を身に具えている自分の世間の狭さ、窮屈さを心から悲しんだという事です。
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   老和尚とその弟子

 名高い西宮海清寺の住職南天棒和尚の弟子に、東馬《とうま》甚斎という居士があった。満洲に放浪していた頃は、馬賊の群に交って、相応な働をしたと言われるほどあって、筋骨の逞しい、鬼のようにいかつい恰幅をした壮士で、日本に帰って来てからは、そこらの電車に乗るのにいつも切符というものを持たないで、車掌がそれを喧《やかま》しく言うと、
「俺は東馬だ。顔を見覚えておけ、顔を……」
と獣のような不気味な顔を、相手の鼻先に突き出すので、車掌も運転手も度胆をぬかれて、ぶつくさ呟きながらも、大抵はそのまま見遁していたものだった。
 あるとし、満洲から帰って海清寺に落ちついた甚斎は、僧堂に自分の気に添わない雲水が二、三人いることに気がついた。
「あんなのは、一日も早く追い出さなくちゃ。和尚の顔にもかかわることだ。」
 甚斎は腹のなかでそう思ったらしかった。彼はその翌日から庫裡《くり》へ顔を出した。そして雲水たちの食事の世話を焼きだした。
 ある朝、雲水たちは汁鍋の蓋を取ってびっくりした。鍋のなかには、無造作にひきちぎられた雑草の葉っぱの上に、殿様蛙の幾匹かが、味噌汁の熱気に焼け爛れた身体を、苦しそうにしゃちこ張らせたまま、折重って死んでいた。
「気味が悪いな。一体どうしてこんなものが……」
 雲水の一人は咎めだてするように、そこに突立っている甚斎の顔を見た。
「俺の手料理さ。肉食の好きな君たちには、あまり珍らしくもあるまいが、まあ遠慮せんで食べてくれ。俺もここでお相伴《しょうばん》をするから。」
 甚斎はこう言って、皆の汁椀にそれぞれ雑草の葉っぱと蛙とを盛り分けた。そして鍋に残った蛙の死骸の一つをつまみ上げて、蝦蟇《がま》仙人のように自分の掌面《てのひら》に載せたかと思うと、いきなり唇を尖《とが》らせてするするとそれを鵜呑にしてしまった。
 皆は呆気にとられた。そして不気味そうに自分たちの椀のなかを覗き込んでじっと眉を顰《ひそ》めていたが、眼の前にいっかい膝の上で石のような拳《こぶし》を撫でまわしている甚斎の姿を見ると、悲しそうにそっと溜息をついた。
 皆は不承不精に椀を取り上げた。そして犬のように臭気《くさみ》を嗅ぎながら、雑草の葉っぱを前歯でちょっぴり噛ってみたり、蛙の後脚をそっと舌でさわってみたりした。
 そんなことが度重るうちに、自分の身にうしろ暗いところのある雲水は、後々《あとあと》を気遣って、いつの間にか寺から姿を隠してしまった。甚斎は手を拍《う》って喜んだ。
 そのことが南天棒の耳に入ると、甚斎は方丈に呼び出された。他人のなかでは荒馬のように粗暴な甚斎も、和尚の前へ出ては猫のようにおとなしかった。和尚はいった。
「東馬、お前は雲水たちをいびり出したそうじゃな。乱暴にも程があるじゃないか。」
「はい。別に追出したというわけではありませんが……」甚斎は雄鶏のように昂然と胸を反《そ》らせた。「彼等から出て往きました。雲水にもあるまじき所業の多かった輩《てあい》でしたから、あとに残ったものは、実際救われましたようなわけで……」
 老和尚は相手の得意そうな顔をじろりと見返した。
「後に残ったものは救われたかも知れんが、出て往ったものは救われたじゃろうかな。」
「……」甚斎は壁に衝き当ったようにどぎまぎした。
「救われないかも知れませんが、それにしたって、あんな不行跡者は仕方がありません。」
「それはいかん。」和尚はこう言って、側の本箱から一冊の写本を取出した。そして紙に折目のついているところを繰り開けて、甚斎の鼻先に突きつけた。「ここのところを読んでみなさい。声をあげて。」
 甚斎は和尚の手から本を受取った。そして納所坊主《なっしょぼうず》がお経を読む折のように、声を張り上げてそれを読み出した。
「下谷高岸寺に、ある頃弟子僧二人あり。一人は律義廉直にして、専ら寺徳をなす。一人は戒行を保たで、大酒を好み、あまつさへ争論止まず、私多し。ある時什物を取出し売るを――ひどい奴があったものですな。まるで此寺《こちら》の雲水そっくりのようで……。」
「むだ口を利《き》かんと、後を読みなさい。」
 和尚は媼さんのような口もとをしてたしなめた。甚斎はまた読み続けた。
「あるとき、什物を取出し売るを、一人の僧見て諫《いさめ》を加へけるに、聞入れざれば、この由住持に告げ、追退《おいの》け給はずば、ために悪しかりなんと言ふ。住持先づ諭し見るべしとて、厳しく戒めたるままにて捨て置きぬ。又あるとき仏具を取出し売りたるに、いよいよ禍ひに及び、わが身にもかからん間、彼のものに給はずんば、我に暇給はるべしと頻りに言ひける程に、住持涙を浮べ、
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