いつもきまったように松木立のなかに入って行くことにしているが、松脂の香気に充ちた空気を胸一杯に吸い込むと、憂鬱は影もなく消えてゆき、心はいつのまにか気力と新鮮さとを取り返している。
むかし、足利尊氏は洛西等持院の境内にあった一本の松をこの上もなく愛していた。それはほととぎすの松といって、ほととぎすが巣をかけたことのある名木だった。実をいうと、この鳥はどんな場合にも、自分では巣を組まないで、鶯の家へこっそり卵を産み落し、雛をかえさせるので知られているほどだから、ほととぎすの巣だというのも、詮じてみれば鶯のそれだったかも知れないが、そんな詮索はどうでもいいとして、尊氏は愛賞のあまり、鎌倉へ下向の折にも、この樹のみはわざわざ持ち運ばせるのを忘れなかった。すると、鎌倉滞在中は樹に何となく生気がぬけていたが、主人の上洛とともに等持院に帰って来ると、急にまた元気づいて、葉の色も若やいで来たということだ。
私が松木立のなかに立って、持病の憂鬱がとみに軽くなるのを覚えるのは、ちょうどこのほととぎすの松が、寺の境内に帰って来て、生気を回復するのと同じように、ここに一つの郷土を感ずるからなのではあるまいか。ともかくも、それほどまでに松脂のにおいは、私たちの生活の奥深く滲み透っているように思われる。
3
松茸の蒸すようなにおいは、私をしてこんなことまでも聯想させた。だが、私は今病をいだいて、起居さえ不自由な境涯にある。松木立のなかで感じられる大気の辛辣さ新鮮さが、どんなに私を誘惑して、軽い動悸をさえ覚えさせるものがあろうとも、さしあたって私はどうするわけにもゆかない。
近江の石山寺に持ち伝えられた古文書を見た人の話によると、そのむかし、京都のある公卿が、一度ほととぎすを聞こうとは思うが、どうしても聞かれないので、霊験のあらたかな観世音に願って、都の空でこの鳥を鳴かせてほしいと、所望して来たことがそれに載っているそうだ。観世音に祈って、居ながらほととぎすが聞かれるものなら、病に居ても松木立のそぞろ歩きが出来ないこともなかろう。だが、それが出来ないというなら、そこにはまた想像と幻想というものがある。私はその自由な翼に乗って、どことなく松脂の匂いのする私の郷土へ飛ぶことが出来ようというものだ。
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影
1
閉《た》てきった障子に、午後三時頃の陽があかるくあたって、庭さきの木芙蓉の影が黒くはっきりと映《うつ》っている。
枝のたたずまい。花のさかずき。ぎざぎざの入ったもみじ形の葉。――そういうものが、くっきりと浮び出したように、白い障子のおもてにその横顔を投げている。
かまきりが一つ、高脚を踏ん張って、葉の裏にすがりついている。
雀が一羽、どこからか飛んで来て枝にとまると、そのはずみに枝が揺れ、葉が揺れ幹がかすかに揺れている。
小さな蜜蜂が、矢のように真っすぐに来て、蕊の高い花びらのなかに隠れたかと思うと、すぐにまた飛び出して往ってしまう。
いそがしい生活の動きだ。
木芙蓉がだしぬけに顔を、肩を、胸を、――、身体じゅうを皺くちゃにして笑い出した。風が吹いて来たのだ。
一瞬の間もじっとしていない自然の動きは、絶えず障子の影絵にその脈搏を伝え、影は刻々にその以前の姿態と心持とを塗抹し、忘却し、喪失して、それに更る新しい姿態と心持とを生み出している。その一刹那の影を捉えて、それにふさわしい形を与えることは、とても無駄な思いつきだろうか。
むかし、前蜀のなにがし夫人は、秋の夜長のつれづれに、ひとり室に籠って考え事に耽っていたが、ふと何かを見つけると、声に出して叫んだ。
「まあ、竹があんなところに……」
平素夫人が愛していた庭さきの竹が、仙女のような瘠せた清らかな影を、紙窓にうつしていた。いつのまにか空には月があがっていたのだ。
絵心の深かった夫人は、早速筆をとって窓の影そのままを一気に墨に染めた。かりそめの出来心がさせた戯れとのみ軽く思っていたこの竹の画は、後でよく見ると、幹も、枝も、葉も、溌溂として生意に富んだ、すばらしい出来だったそうだ。
夫人のこの画こそ、墨竹の初まりのようにいう人もあるが、そんなことはどうでもよい。忘れてはならないのは、夫人が少しの躊躇もなく、自然の一刹那の姿態を捉えたことによって、はちきれるばかり豊富に生意を画面に盛り得たことだ。
2
自分の姿を見て満足を覚える人は、世間にざらにあるだろうが、自分の影を見て限りもない楽みを感ずる人は滅多にあるまい。
明末四公子の一人として、風流の名をほしいままにした冒巣民の愛妾小苑のごときは、その僅なうちの一人に相違なかった。
小苑が紅熟した桜桃《さくらんぼ》をつまんで食べる時には、桜桃《さくらんぼ》と唇
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