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   古本と蔵書印

 本屋の息子《むすこ》に生れただけあって、文豪アナトオル・フランスは無類の愛書家だった。巴里《パリ》のセイヌ河のほとりに、古本屋が並んでいて、皺くちゃな婆さん達が編物をしながら店番をしているのは誰もが知っていることだが、アナトオル・フランスも少年の頃、この古本屋の店さきに立って、手あたり次第にそこらの本をいじくりまわして、いろんな知識を得たのみならず、老年になっても時々この店さきにその姿を見せることがあった。フランスはこの古本屋町を讃美して、「すべての知識の人、趣味の人にとって、そこは第二の故郷である。」と言い、また「私はこのセイヌ河のほとりで大きくなった。そこでは古本屋が景色の一部をなしている。」とも言っている。彼はこの古本屋から貪るように知識を吸収したが、そのお礼としてまたいろいろな趣味と知識とを提供するを忘れなかった。――というのは外のことではない。彼が自分の文庫に持てあました書物を、時折この古本屋に売り払ったことをいうのだ。
 一度こんなことがあった。――あるときフランスは来客を書斎に案内して、自分の蔵書を一々その人に見せていた。愛書家として聞えている割合には、その蔵書がひどく貧しく、とりわけ新刊物がまるで見えないのに驚いた客は、すなおにその驚きを主人に打ちあけたものだ。すると、フランスは、
「私は新刊物は持っていません。方々から寄贈をうけたものも、今は一冊も手もとに残していません。みんな田舎にいる友人に送ってやったからです。」
と、言いわけがましく言ったそうだが、その田舎の友人というのが、実はセイヌ河のほとりにある古本屋をさしていったのだ。
 そのフランスを真似るというわけではないが、私もよく読みふるしの本を古本屋に売る。家が狭いので、いくら好きだといっても、そうそう書物ばかりを棚に積み重ねておくわけにも往かないからである。
 京都に住んでいた頃は、読みふるした本があると、いつも纏めて丸太町川端のKという古本屋に売り払ったものだ。あるとき希臘《ギリシャ》羅馬《ローマ》の古典の英訳物を五、六十冊ほど取揃えてこの本屋へ売ったことがあった。私はアイスヒュロスを読むにも、ソフォクレエスを読むにも、ピンダロスやテオクリトスを読むにも、ダンテを読むにも、また近代の大陸文学を読むにも、英訳の異本が幾種かあるものは、その全部とは往かないまでも、評判のあるものはなるべく沢山取寄せて、それを比較対照して読むことにしているが、一度読んでしまってからは、そのなかで自分が一番秀れていると思ったものを一種か二種か残しておいて、他はみな売り払うことにきめている。今Kという古本屋に譲ったのも、こうしたわけで私にはもう不用になっていたものなのである。
 それから二、三日すると、京都大学のD博士がふらりと遊びに来た。博士は聞えた外国文学通で、また愛書家でもあった。
「いま来がけに丸太町の古本屋で、こんなものを見つけて来ました。」
 博士は座敷に通るなりこう言って、手に持った二冊の書物をそこに投り出した。一つは緑色で他の一つは藍色の布表紙だった。私はそれを手に取上げた瞬間にはっと思った。自分が手を切った女が、他の男と連れ立っているのを見た折に感じる、ちょうどそれに似た驚きだった。書物はまがう方もない、私がK書店に売り払ったなかのものに相違なかった。
「ピンダロスにテオクリトスですか。」
 私は二、三日前まで自分の手もとにあったものを、今は他人の所有として見なければならない心のひけ目を感じながら、そっと書物の背を撫でまわしたり、ペエジをめくって馴染のある文句を読みかえしたりした。
「京都にもこんな本を読んでる人があるんですね。いずれは気まぐれでしょうが……」
 博士は何よりも好きな煙草の脂《やに》で黒くなった歯をちらと見せながら、心もち厚い唇を上品にゆがめた。
「気まぐれでしょうか。気まぐれに読むにしては、物があまりに古すぎますね。」
 私はうっかりこう言って、それと同時にこの書物の前の持主が私であったことを、すなおに打明ける機会を取りはずしてしまったことを感じた。
「それじゃ同志社あたりに来ていた宣教師の遺愛品《ビクエスト》かな。そうかも知れない。」
 博士は藍表紙のテオクリトスを手にとると、署名の書き入れでも捜すらしく、前附の紙を一枚一枚めくっていたが、そんなものはどこにも見られなかった。
 私は膝の上に取残されたピンダロスの緑色の表紙を撫でながら、前の持主を喘息か何かで亡くなった宣教師だと思い違いせられた、その運命を悲しまぬわけに往かなかった。
「宣教師だなんて、とんでもない。宣教師などにお前がわかってたまるものかい。――だが、こんなことになったのも、俺が蔵書印を持合さなかったからのことで。二度とまたこんな間違いの起
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