っているらしかった。その一組は呼吸の通っている人達とみえて、声柄に何の変りもなかったが、今一つの組が肉身を具えたこの世の人たちでなかったのは、その物言いぶりが何よりもよく語っていた。紛れもない幽魂《たましい》そのものの声で、それを耳にすると、掘りかえされた墓土の黴臭い呼吸と、闇に生れた眼なし鰻の冷さが気味悪く感じられた。恐いもの見たさの物好きが強く働いていなかったら、若い漁師はそこそこに舟を漕いで、遠くへ逃げ出したかも知れなかった。
「すると、お前たちが心静かに月に見とれていると、そこへこちらの二人が無理に入って来たというのだな。」
だしぬけにこういう声が聞えた。その声には、口喧嘩《いさかい》をし合っている輩《てあい》のものとは似てもつかない重々しい力があった。若い漁師はすぐにそれを社廟の神様のお声だなと気づいて、軽い身顫いを覚えた。
「さようにございます。手前どもが永い間閉じ籠められた常闇《とこやみ》の国から抜け出して来て、久しぶりに見たのが今夜の満月でございましょう。手前どもはあの青白い光を見ると、むかしのいろんなことを思い出して、唯もう夢のような気持で、水際の草の上に蝗《いなご》のように脛《すね》を折り曲げて、じっとあたりの静かさを楽しんでいたものでございます。そこへいきなり理不尽に割り込んでござらしたのがこの旦那衆で……。」
喧嘩の片われは、下様《しもざま》な雑人《ぞうにん》だと見えて、言葉つきにどことなく自ら卑下したところがあった。他の一人がすぐ後を引取った。
「いさかいは、そこから始まったのでございます。手前どもの団欒《まどい》に、そこのお二人が割り込んで見えなければ、悶着《もめ》は起らなかったはずです。どうか正しいお裁きが願いたいもので……。」
「それはいかん。」神様は苦々しそうに相手をたしなめた。「おまえ達は、相当な身なりをしているくせに、何故あってそんな不作法な真似をするのだ。一体何者なのか。おまえ達は……。」
「詩人です。二人とも。」
相手の一人は得意そうに言い放った。その声にはみだらな女と酒とのにおいがぷんと籠っているように感じられた。若い漁師はそれを聞いて、この人たちは詩を作ることを、魚を獲ることと同じように、立派な職業《しごと》だと考えているらしい。魚は市場に持って往けば、いつだって金に替えることが出来るが、詩と来たらてんで引取手《ひきとりて》があるまいに、可笑しな勘違いだと思って、口もとに軽い微笑を浮べた。
「そうか、詩人か。」神様は二人の男が詩人だと聞いて、いくらか気持が更《かわ》ったらしく、急に調子を荒らげて相手の雑人を叱りつけた。「何だ。貴様たち。こちらは文字のある先生方じゃないか。下衆のくせに寄ってたかって、先生方に反抗《はむか》うなんて、恥知らず奴《め》が……。」
「滅相な。手前どもがこの旦那衆に反抗《はむか》うなんて、そんな……。」相手の一人がびっくりしたように言った。持病の喘息で生命を捨てたものらしく、言葉を急き込む度に、ぜいぜい息切れがするのが手に取るように聞えた。「そんな間違ったことはございません。喧嘩《いさかい》の種を蒔いたのはこの旦那衆です。静かに月を見ている手前どものなかへ割り込んで来るなり、鵞鳥のような声でもって、何だか、へい、訳も解らないことを、ぎゃあぎゃあ我鳴り立てなすったものだから……。」
「そんな高声で、何をまた議論し合ったのだ。」
社廟の神様は、詩人たちに訊いたらしかった。
「無論詩のことでございます。」きっぱりと返事をするのが聞えた。「その他《ほか》のことは、何一つ論ずる値打がありませんから。」
「ほう、詩のことか。詩のことなら、議論の題目として何不足はないはずだ。」神様も恋をする若い人達と同じように、詩は大の好物らしかった。「お前達も、黙って聴いていればいいじゃないか。」
「聴いてはいませんでしたが、黙ってはいました。なぜと申しまして、聴いたところで手前どもにはあまり難かしくて、とても解りようがなかったのですから。すると、この旦那衆は、黙っているのが気に喰わないと見えて、また一段と声を張り上げて喚き散らしなさいます。これでもか、これでもかといった風に。それを辛抱《がまん》しかねた仲間の一人が、
「どうか少しお静かに願います。」
といったものです。すると、こちらの旦那衆が、
「何っ。」
と、いいさま、いきなり起上って拳《こぶし》を振り上げなさいましたので……。」
「何でも、へい、世間の噂には、江都の詩人汪先生は、友達が宋代とやらの詩を貶《けな》したからといって、えらく腹に据えかねて、いきり立って議論を吹っかけたので、近くの樹にとまっていた小鳥が、みんな逃げてしまったそうに聞きました。一体詩人というものは、みんな牛のように吼えるものと見えまして……。」
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