とか謡った。予はまだそれほど道情《どうじょう》を得た人間だとは思わない。が、昨《さく》の非を悔い今の是《ぜ》を悟っている上から云えば、予も亦同じ帰去来《ききょらい》の人である。春風は既に予が草堂の簷《のき》を吹いた。これから予も軽燕と共に、そろそろ征途《せいと》へ上ろうと思っている。
[#ここで字下げ終わり]
同じ年の五月上旬、芥川氏は氏の入社と同時に、東京日々の方へ迎えられた菊池寛氏と連立って、初めて大阪に来たことがあった。新聞社へ来訪したのが、ちょうど編輯会議の例会のある十日の夕方だったので、私は二氏に会議の席へ顔出しして、何かちょっとした演説でもしてもらおうとした。演説と聞いて、菊池氏は急に京都へ行かなければならない用事を思い出したりしたので、芥川氏は不承不精に会議に出席しなければならなくなった。
その晩、芥川氏が何を喋舌《しゃべ》ったかは、すっかり忘れてしまったが、唯いくらか前屈みに演壇に立って、蒼白い額に垂れかかる長い髪の毛をうるさそうに払いのけながら、開口一番、
「私は今晩初めてこの演壇に立つことを、義理にも光栄と心得なければならぬかも知れませんが、ほんとうは決して光栄と思うものでないことをまず申上げておきます……」
と氏一流の皮肉を放ったことだけは、いまだに覚えている。この演説にはさすがの芥川氏も閉口したと見えて、東京へ帰ってから初めての手紙に、
「しかし演説には辟易しました。演説をしなくてもいいという条件がないと、ちょいと編輯会議にも出席出来ませんな。」
といってよこしていた。
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哲人の晩年
三十年間、The Ladies' Home Journal の記者として名声を馳せた Edward Bok が、小新聞の速記者として働いていたのは、まだ十五、六歳の少年の頃だった。その頃彼は思い立って、ボストンへ名士の訪問に出かけて往ったことがあった。
彼はそこで、詩人の Oliver Wendell Holmes や、Longfellow や、宗教家の Phillips Brooks などに会った。これらの名士たちは、幾分のものずきも手伝って、みんな親切にこの少年をもてなした。そしていろいろ有益な談話をしてくれたり、少年の差出した帳面に、それぞれ署名をしてくれたりした。こんなことで、少年のボストンにおける滞在は、譬えようもない
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