。」書店の主人は、その神をさがすもののように空虚な眼をしてそこらを見廻した。
 船は門司の沖に来かかったらしく、汽笛がぼうと鳴った。
 海近い備中の郷里の家で、私がK氏の口からこんな話を聞きながら、受取った徳富氏の手紙には、次のような文句があった。
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不図思ひ立ちてキリストの踏みし土を踏み、またヤスナヤポリヤナにトルストイ翁を訪はむと巡礼の途に上り申候。神許し玉はば、一年の後には帰り来り、或は御目にかかるの機会ある可く候。
大兄願はくば金玉に躯を大切に、渾ての点において弥々御精進あらんことを切に祈上候。
  一九〇六、仏誕の日関門海峡春雨の朝[#地から1字上げ]徳富健次郎
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     4

 私は一度K書店の主人と道づれになって、今の粕谷の家に徳富氏を訪ねたことがあった。門を入って黄ばんだ庭木の下をくぐって往くと、そこに井戸があった。K氏はその前を通りかかるとき、小声で独語のように、
「そうだ。労働は神聖だったな。」
と、口のなかでつぶやいたらしかった。私はそれを聞きのがさなかった。
「何だね、それ。」
 K氏は何とも答えなかった。二人は原っぱのような前栽のなかに立っている一軒家に通された。日あたりのいい縁側に座蒲団を持ち出してそれに座ると、K氏はにやにや笑い出した。
「さっき井戸端を通るとき、私が何か言ったでしょう。あれはね、以前私がこちらにお伺いしたとき、先生が、自分の代りに風呂の水を汲んでくれるなら、面会してもいいとおっしゃるので、仕方がなく汲みにかかりました。こちらの井戸は湯殿とは大分遠いところにあるので、なかなか容易な仕事じゃありません。やっと汲み終えて、客間へ通ると、先生が汗みずくになった私の顔を見られて、
「Kさん。労働は神聖ですな。」
と言って笑われましたっけ。今あすこを通りかかって、それを思い出したものですから……。」
「いつぞやの「神を信ぜよ。」と同じ筆法だ。徳富君一流の教訓だよ。」
 私がそういって笑っているところへ、主人がのっそりと入って来た。そしてそこらを眺め廻しながら、
「この家いいでしょう。土地の賭博打がもてあましていたのを、七十円で買い取ったのです。時々勝負のことから、子分のものの喧嘩が初まるので、そんなときの用意に、戸棚なぞあんなに頑丈に作ってありますよ。」
といって、家の説明などした
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