ど設けたことはありません。私にはそんな必要がありませんから。」
 言葉の調子に、どこか不平らしいところがあった。私はどういって返事をしていいかわからなかった。

     2

 徳富氏の『黒潮《こくちょう》』第一巻が公にせられたのは明治三十六年だった。この小説は作そのものよりも、兄蘇峰氏に投げつけた絶交書のような序文の方で名高かった。
 その年の夏、徳富氏は大阪へ遊びに来て、私を訪ねてくれたことがあった。ちょうど博覧会が天王寺に催されていた頃で、その賑いをあてこみに、難波で東京大阪の合併相撲があって、かなり人気を引立てていた。
 徳富氏も私も相撲は好きだった。尤もあの前後に生れ合わせていて、それで相撲を好かなかったという人があったら、そんな人は人生のどんな事柄に対しても、興味が持てなかったに相違なかった。それほどまでにあの頃の相撲は溌溂としていた。伸びゆく生命そのものを見るような感じがあった。
 二人の話はおのずと好きな方へ向いて往った。徳富氏は黒い大きな塵よけ眼鏡の奥から、眼を光らせながらいった。
「昨日一日合併相撲を見ましたが、大阪方の若島は強いですね。手もなく荒岩を投げつけましたよ。荒岩の一生にあのくらい手綺麗に投げられたことは、二度とないかも知れません。ことによると、常陸山なぞもやられないにも限らない……。」
「若島はいい力士ですが、常陸山に勝とうなどとは思われない。」
 私は客の言葉に承引が出来なかった。
「いや、勝つかも知れない。」
「分でゆくと、まず七三かな。」
「いや、そんなことはない。五分五分だ。」
「まさか……。」
 二人は暫くそんなことをいい争っていたが、ちょうどそこへ外の来客があったので、話はそれなりになってしまった。
 その場所での両力士は預りで、誰が見ても八百長の臭みが高かったということだった。
 すると、その翌月だったか、合併相撲の顔触をそのまま京都へ持ち込んで、花見小路で興行したことがあった。その楽《らく》の日に若島は常陸山につり出されて負けたが、若島としてはなかなか分のいい相撲をとったので、ひいき客のある人が祇園下の料理屋へこの力士を招いて、言葉を極めてその日の相撲ぶりを賞めたてたものだ。若島は気恥かしそうに頭へ手をやった。
「いや。そうお賞め下さるがものはありません。今度こそ初めて常陸関のずばぬけて強いのに驚きました。実は私五日
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