い返しているのではあるまいかと思われた。そして酒を飲むのも、こんな楽みを喚び起すためではあるまいかと思われた。
 客はそんな話に一向興味を持たなかったので、そろそろ暇を告げようとすると、対山は慌ててそれを引きとめた。
「まあよい。まあよい。今日は久しぶりのことだから、これから画を描いて進ぜる。おい、誰か紙を持って来い。」
 彼は声を立てて次の間に向って呼かけた。
 画と聞いては、客も帰るわけには往かなかった。暫くまた尻を落着けて話の相手をしていると、対山は酒を勧め、肴を勧めるばかりで、一向絵筆をとろうとしなかった。客は待ちかねてそれとなく催促をしてみた。
「お酒も何ですが、どうか画の方を……。」
「画の方……何か、それは。」
 酒に酔った対山は、画のことなどはもうすっかり忘れているらしかった。
「さっき先生が私に描いてやるとおっしゃいました……。」
 客が不足そうに言うと、やっと先刻の出鱈目を思い出した対山は、
「うん。そのことか。それならすぐにも描いて進ぜるから、今一つ重ねなさい。」
と、またしても盃を取らせようとするのだ。
 こんなことを繰り返しているうちに、到頭夜になった。そこらが暗くなったので、行灯が持ち出された。
 へべれけに酔っ払った対山は、黄ろい灯影《ほかげ》にじっと眼をやっていたが、
「さっき画を進ぜるといったが、画よりももっといいものを進ぜよう。」
 独語のように言って、よろよろと立ち上ったかと思うと、床の間から一振の刀を提げて来た。そしていきなり鞘をはずして、
「やっ。」
という掛声とともに、盲滅法に客の頭の上でそれを揮りまわした。
 客はびくりして、取るものも取りあえず座から転び出した。

 戸外の冷っこい大気のなかで、客はやっと沈着を取り返すことが出来た。そして朝からのいきさつを頭のなかで繰り返して思った。
「あの先生の酒は、物の味を肴にするのじゃなくて、感興を肴にするのだ。私というものも、つまりは八瀬の蕗の薹と同じように、先生にとって一つの肴に過ぎなかったのだ――たしかにそうだ。」
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   徳富健次郎氏

     1

 徳富健次郎氏が歿くなった。重病のことだったし、どうかとも思う疑いはあったが、いつも看護の人達にむかって、
「生きたい。まだ死にたくない。」
と、力強い声で叫んでいたということを聞き、因縁の深い、好きな伊香
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