海がぼんやり霞んでいるのを見ると、生れ故郷の瀬戸うちの海を思い出して、そこで捕られた魚の金粉を吹いたような鱗をなつかしがることがよくある。
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   蟹

     1

 雨の晴れ間を野路へ出てみた。
 ずぶ濡れになった石のかげから、蟹が一つひょっこりと顔を出していた。
「いよう。蟹か。暫くぶりだったな。」
 私はそう思って微笑した。それが春になって初めて見る蟹だったことは、私がよく知っていた。
 暫く立ちとまって見ていると、蟹は石の下からのこのこと這い出して来た。そして爪立するような脚どりで水溜を渉り、髪を洗う女のように頭を水に突っ伏している雑草の背を踏んで、少し高めになっている芝土の上へあがって来た。
 ふと何かを見つけた蟹は、慌てて芝土に力足を踏みしめ、黒みがかった緑色の甲羅がそっくりかえるばかりに、二つの真赤な大鋏《おおばさみ》を頭の上に振りかざしている。
 怒りっぽい蟹は、一歩《ひとあし》巣から外へ踏み出したかと思うと、じきにもう自分の敵を見つけているのだ。
 彼は傍に立っている私を、好意のある自分の友達とも知らないで、その姿に早くも不安と焦燥とを感じ出し、持前の喧嘩好きな性分から急に赫となって、私に脅迫を試みているのだ。
 万力《まんりき》を思わせるような真赤な大鋏。それはどんな強い敵をも威しつけるのに充分な武器であった。
 そんな恐ろしい武器を揮って、敵を脅かすことに馴れた蟹は、持ち前の怒りっぽい、気短かな性分から、絶えず自分の周囲に敵を作り、絶えずそれがために焦立っているのではなかろうか。
 その気持は私にもよく分る。すべて人間の魂の物蔭には、蟹が一匹ずつかくれていて、それが皆赤い爪を持っているのだ。

 私がこんなことを思っていると、蟹は横柄な足どりで、横這いに草のなかに姿を隠してしまった。

     2

 海に棲むものに擁剣蟹《がざみ》がいる。物もあろうに太陽を敵として、その光明を怖れているこの蟹は、昼間は海底の砂にもぐって、夜にならなければその姿を現わそうとしない。
 擁剣蟹は、脚の附け際の肉がうまいので知られているが、獲られた日によってひどく肉の肥痩が異うことがある。それに気づいた私は、いつだったか出入の魚屋にその理由を訊いたことがあった。魚屋はその荷籠から刺《とげ》のある甲羅を被《き》たこの蟹をつまみ出しながら言った。

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