アとは、うちで待っているその妻にとっては堪えがたい苦痛に相違ない。
そういうだらしのない男に連れ添った米国婦人の一人が、良人のそんな癖を治そうとして、いいことを思いついた。良人の穿き古した靴が破けかかって、別なのを新調しなければならないのを見てとった妻は、
「これまでのあなたの靴はあまり大き過ぎて、まるでお百姓さんのように不恰好でしたわ。こん度お誂えになるのは、も少し小ぶりになさいよ。きっと意気でいいから。」
といって、わざと文《サイズ》の小さいのを靴屋に註文させたものだ。
このもくろみは確かに成功した。一日外で文《サイズ》の小さな靴を穿かされている良人は、足の窮屈なのにたまりかねて、勤めがすむが早いか、大急ぎで家に帰って来た。そして窮屈な靴をぬいで、スリッパに穿きかえるのを何よりも楽しみにした。
こんな日が重なるにつれて、良人の悪い癖はいつのまにか治っていたそうだ。
女の抜目のない利用法にかかったら、どんな男でも羅紗の小片《こぎれ》と同じように、ただ一つの材料に過ぎない。女はそれが手提袋を縫うのに寸が足りないと知ったら、代りに人形の着物を思いつこうというものだ。――滅多にあきらめはしない。
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マッチの火
これは露西亜の片田舎にある一軒屋で起きた事柄だ。――
ある独身者の農夫が、寝しなに自分の義歯《いれば》をはずして、枕もとのコップの水に浸しておいた。すべて義眼や義歯をはめている人たちは、よくこうしたことをするものなのだ。
その夜はひどく寒かった。朝起きてみると、戸外は大雪だった。農夫は義歯を取り上げようとして、初めてコップの水がなかに歯を抱《いだ》いたままで、堅く凍りついているのに気がついた。
氷を溶すには、さしあたり火をおこすより仕方がなかった。彼は台所に下りてマッチを捜したが、間が悪いときには悪いもので、唯の一本もそこらに見つからなかった。
ちょうど暁の五時で、農夫は義歯のない口では、朝飯を食べることもできなければ、また人と話をするわけにも往かなかった。
彼は厩に入って馬を起した。そして町はずれに住んでいる友人を訪ねようとして、六|哩《マイル》の間雪の道を走らせた。
友人は入口に立ったその訪問客が、急に齢《とし》とって皺くちゃな、歯のない頤をもぐもぐさせながら、手ぶりで何か話そうとするのを見てびっくりした。やっと
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