オく、何一つ答えてくれなかった。新入生は胸に動悸を覚えた。
「あの鐘はよく鳴りますね。僕気に入っちゃった。」
彼は半分がた自分に話すもののように言った。部長は何とも答えなかった。
「鐘の音が、たまらなくいいじゃありませんか。」
新入生は泣き出しそうになって、やけに声を高めた。
「何かお話しでしたか。」部長はやっと気づいたように、今まで地べたに落していた考ぶかい視線を、若い道連れの方へさし向けた。「あの地獄の鐘めが、いやにうるさく我鳴り立てるもんだから、つい……」
2
名高い提琴家ミイシャ・エルマン氏が、初めて大阪に来て、中之島の中央公会堂で演奏を試みたときのことだった。ずかずかと楽屋へ訪ねて往ったある若い音楽批評家は、そこにおでこで小男の提琴家が立っているのを見ると、いきなりまずい英語で話しかけた。
「すばらしい成功ですね。ところで、どうです。この会場《ホオル》のお感じは。別に悪くはないでしょう。」
熱心な聴衆を二千あまりも収容するこの立派な会場を持っていることは、若い批評家の土地《ところ》自慢の一つだった。彼はこの名誉ある音楽家から、それに折紙がつけてもらいたかったのだ。
エルマン氏は、禿げ上った前額に滲み出る汗を無雑作に手帛で拭きとりながら、ぶっきらぼうに答えた。
「ここは音楽会をする場所じゃないね。大砲をうつところだよ。大砲をね……」
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慈善家
男というものは、郵便切手を一枚買うのにも、同じ事なら美しい女から買いたがるものなのだ。――故ウィルソンの女婿 Mcadoo 氏はよくこの事実を知っていた。
あるとき Mcadoo 氏が、自分の関係しているある慈善事業のために、慈善市《バザア》を催したことがあった。氏はその売子のなかに、幾人かの美しい女優を交えておくのを忘れなかった。
その日になって、氏が会場の入口を入ろうとすると、そこには紀念の花束を売りつけようとして、四、五人の若い女たちが客を待っていた。そのなかに一人ずばぬけて美しい女優が交っていたが、その女はかねて顔馴染な Mcadoo 氏を見ると、顔一杯に愛嬌笑いを見せながら、いち早く歩み寄って来た。そしてきゃしゃな指さきに露の滴るような花束をとり上げて、
「あなた、お一つどうぞ……」
と、押しつけようとした。
Mcadoo 氏はあぶなくそれを受け取ろうと
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