す。旧年はいろいろ……」
尼さんが丁寧に挨拶するのを、老人は「うん、うん」と横柄に鼻であしらつてゐましたが、尼さんが次の間に下つてゆくと、いくらか落ちついた調子で私に話しかけました。
「おい、今の尼さんの左手を見たかい」
「左手ですつて」私はちよつとまごつきました。「左手をどんなにしてゐました。うつかり気がつきませんでしたが」
「馬鹿ぢやのう。何といふうつそりぢや。あの手つきに気がつかないなんて。いつぞや早稲田の島村抱月とやらいふ奴をここに連れてきてやつたが、あいつもお前と同じやうなうつそりで、やつぱり気が付かなんだよ」
老人は得意さうに言つて、私のために尼さんの手つきを説明してくれました。それは左手を膝や畳の上におくをりには、いつも拇指《おやゆび》を中に、残りの指は皆行儀よく折り曲げて、決してぢかに掌面を当てないやうにしてゐると言ふのです。
「左手は客のために用意しておくものぢやから、なるべく汚さないやうにといふ心がけなのぢや。不行儀に育つたお前たちには、とても解るまいが……」
老人はまたしても喚くやうに声を高めましたが、急に気がついたやうにそこらを見廻しました。
「さつきの神戸の奴はどうしたらう。お前知らんかの」
「存じませんよ。本堂までは一緒に来てゐたやうでしたが」
「あいつには外套を持たせてあるのぢやが」
老人は不安さうに眩きながら、やつとこなと立ち上つて、次の間に捜しに出かけました。私もあとからついてゆきました。紳士の姿はそこにも本堂にも見えませんでしたが、禿げちよろけの老人の外套は折り畳んだまま、お鏡餅の飾つてある小さな経机の上に載せてありました。そして手帖でもちぎつたらしい紙片に、鉛筆で次のやうに書いてありました。
[#ここから3字下げ]
「奉納。 古外套一着。
口喧しい老人より」
[#ここで字下げ終わり]
北畠老人は懐中《ふところ》から眼鏡をとり出して、その紙片に眼を落したと思ふと、泣くやうな声で笑ひ出しました。
「あいつめ、老人をわやにしよるわい」
[#地から1字上げ]〔大正15[#「15」は縦中横]年刊『太陽は草の香がする』〕
底本:「泣菫随筆」冨山房百科文庫、冨山房
1993(平成5)年4月24日第1刷発行
1994(平成6)年7月20日第2刷発行
底本の親本:「太陽は草の香がする」
1926(大正15)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年5月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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