茶立虫
薄田泣菫
静かな秋の一日、午後三時頃の事でした。家の者はみな遊びに出かけたので、留守居に残された私は部屋に坐つたまま、背を壁にもたせて、何を考へるでもなし、ひとりつくねんとしてゐました。煤けた壁の落ちつきが、冷え冷えと背を伝はつて、しつとりと心の底まで滲みとほるのもいい気持でした。
先き方まで、土間のどこかで懶さうに鳴いてゐた蟋蟀も、いつのまにか鳴き止んで、あたりはひつそりとしてゐました。
ふと気がつくと、すぐ側にたてかけた障子のなかから、微かな物音が伝はつて来ます。
「と、と、と、と、と、……」
美しい銀瓶のなかで、真珠のやうな小粒の湯の玉が一つ一つ爆ぜ割れるのを思はせるやうな響です。間違はうやうもない、茶立虫の声です。――いや、ほんたうの事をいふと、仮にそれを茶立虫の声だときめておくまでの事で、私は今日までまだ一度だつて茶立虫といふ虫を見た事がありません。何でも極めて小さな虫で、自分の頭を障子にこすりつけて、あんな仄かな音を出すのださうで、私は子供の頃から一度この虫の正体を見つけたいものだと思つて、幾度か声をしるべに、そこらの物蔭を探し廻りましたが、一度だつてそれらしい虫を見かけた事はありません。私が動き出すと、ばつたり鳴きやみ、私が静かにしてゐると、またことことと鳴き出すといつた調子で、居るといへば居る、居ないといへば居ないやうな虫なのです。
「と、と、と、と、と、……」
何といふ微かな響でせう。「沈黙」そのものよりも、もつと静かで、もつと寂しいのはその声です。「静寂」そのものが、自分の寂しさに堪へられないで、そつと口のなかで呟やいたやうなのはその声です。女の涙、青白い月光の滴り、香ぐはしい花と花との私語。――さういつたもののなかで、茶立虫の声ほど、静かで寂しみのあるものは、またと外にはありますまい。
すべて虫の鳴くのは、その雄が目に見えぬ雌に向つて呼びかけてゐるのです。夏の夕ぐれ、山の上の一本杉でかなかな蝉が鳴くと、その鋭い声は岡を越え、野を越えて、遠く一里下の人里にまで聞えるといひます。また仙台侯が秋毎に将軍家へ献上するために、宮城野の萩原で飼つてゐた松虫は、
「りん、りん、りん、りん、りん、りん、りん」
と一息に七度まで美しい節を転ばしたさうです。この松虫やかなかな蝉のやうに、高い美しい声を張り上げてゐるのだつたら、眼に見えない異
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