ぶやく。
「生命にも少し飽きたやうだ。鷲はどこへ往つたか知ら。良弁を落したままで、未だに帰つて来ない。待つてゐる間に千年の夏は経つてしまつた。余り短い月日でも無かつたやうだ。」
 竹柏がまたいふ。
「何だか言語が欲しくなつて来やうだ。」
 空には雲も薄らいで、そろそろ天気が直つて来たらしい。初夏の気力に満ちた白い光が一筋さつと黒ずんだ竹柏の枝を洩れて、花やかに樹々の幹に落ちる。すると、鳶色がかつた樅や、白味の勝つた櫟や、干割れた竹柏の樹の肌が、陰鬱な森の空気にくつきりと浮き上つて、さながら古寺の内陣で、手燭の火影に、名匠の刻んだ十二神将の背でも見るやうに、引き緊つた健かな気持で眺められる。
 ふと、女の吐息するやうなけはひがして、ほろほろと頸に落ちかかるものがある。
 手に取つて見ると、萎びかかつた藤の花らしい。さては奈良には、皐月も半ばを過ぎた今日この頃、いまだにこの紫の花が咲き残つてゐる事か。見あげると、太い杉の木かげに、すくすくと伸びあがつた古い藤蔓が、さながら女の取り乱したやうに茎を垂れ、葉を垂れて、細長い腕を離れじとばかり傍《あたり》の樹々に纏ひかけてゐる。いろいろの木の囁きのなかに、この木の声のみが聞かれなかつたのに無理は無い。藤は忍び音に泣いてゐるのである。



底本:「日本の名随筆21 森」作品社
   1984(昭和59)年7月25日第1刷発行
   1998(平成10)年1月30日第17刷発行
底本の親本:「人と鳥虫」桜井書店
   1943(昭和18)年4月発行
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング