やうな苦痛をさへ感じ出しました。

        五

「もしや、おれの眼が低くて、鑑定《めきき》が誤つてゐるのではあるまいか……」
 忠興はふとこんなことを思ひ出しました。亡くなつた松井佐渡の口からは、仲間喜平とやらは、茶道のはうには何の心得もない、無知なもののやうに聞いてゐた。そんな心得のないものが、ふとした機会で拾つてきたものを、自分が一目見て、
「天下一の瀬戸ぢや」
と口を極めて賞め立てたとしてみると、今日まで茶道の巧者として、自らも他人も許してゐたものの眼が、無知なもののそれと偶然一致したといふよりも、ことによると、その巧者として許されてゐたものが、案外道の入り立ちが浅く、眠が低かつたせゐだつたかも知れない。――と忠興は思ひました。さう思ふと、彼はわが眼に自信が持てなくなりました。
「一度古田|織部《おりべ》に見せるとしよう。あの男は将軍家の師範役だから……」
 忠興はかう思ひきめました。そして織部の一言で、自分の眼が低いか高いかがきまるのだ。高いときまつた場合には、自分は今まで通りわが眼に自信を持つことができるが、仲間喜平の名前は、いつまでも悪夢のやうに自分につきまとふに相違ない。もしまた低いときまつた場合には、自分は喜平の悪夢から遁れることはできるが、その代り名器と自信とを両《ふた》つとも失ふのだ。と思ふにつけて、忠興は悲壮な気特に身うちのひきしまる感じを味はひました。

        六

 古田織部は、つくづくと見入つてゐた眼を、木の枝から果物をもぐ折のやうに、労《いた》はりながらそつと茶入からひき離しました。
「これこそ、真実天下一の瀬戸と拝見いたした。稀代の名器、随分珍重なされたがよろしからうと存じます」
 織部は、いかにも感に堪へたやうに言ひました。
 それを聞くと、忠興はほつとして、自分の眼に間違ひはなかつたなと思ひました。それと同時に、またしても仲間喜平の名が、鉛のやうな重さをもつて、心の上にのしかかつてくるのを覚えました。しばらくして織部はまた言ひました。
「……随分珍重なされたがよろしからうとは存じますが、御当家ほどの御家で、瀬戸のみの珍重もいかがなれば、この上に唐物《からもの》の名物をお求めあつて、その唐物以上に珍重なされてしかるべく存じます」
 唐物の名物――この一語を聞くと、忠興の胸は、急に日光がさしたやうにぱつと明るくなり
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