ぢや。火をおこしてすぐに煖まるとせう。」
 といつて、いきなりそれに火をつけて、三俵とも一度に火にしてしまひました。そして尻を煖めながら、
「ああ煖かい、いい気持ぢや。久し振で今日は大尽になつたやうな気がするて。」
 といつて、いい気になつてゐたといふ事であります。
 炭を送つてよこした友達の心では、冬中の寒さはこれだけあつたら凌ぎおほせるだらうと位に考へてゐたらしいのです。また普通の人ならばきつとさうしただらうと思はれます。だが、老鉄はそんな真似をしないで、三俵一度に火にしてしまひました。つまりこれまでの貧乏暮しのやうに、ちびりちびり火をおこしたところで、三俵の炭はやつと六十日を持ちこたへるに過ぎますまい。それでは唯平凡な日の連続に過ぎません。それよりかも、折角到来の炭です。残りの五十九日はよし寒さに顫へてゐようとも、その五十九日にも更へ難い程の一日を味つてみたいといふのが、画家老鉄のその日の思ひ立ちではありますまいか。彼が尻を煖めながら、いい気持になつて、
「まるで大尽になつたやうな気がする。」
 といつたのは、実際言葉どほりに生活の跳飛であり、経験の躍進であり、更にまた新しい心持の世界の新発見でありました。
 桜の花の気持は、画家老鉄のやうな態度を持つた人で、初めてよく味はれますし、老鉄の抱いてゐたやうな心持は、この花の姿でおもしろく表現出来てゐると思ひます。



底本:「日本の名随筆65 桜」作品社
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
   1996(平成8)年3月30日第12刷発行
底本の親本:「大地讃頌」創元社
   1929(昭和4)年6月発行
入力:門田裕志
校正:大野 晋
2004年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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