になつた。……いつだつたか、私が母と口舌をした時に、母が隨分と口喧しく意地を張り通したもんだから、私もつい口を滑らして『貴方がお解りにならぬのも御無理はありません、二人はすつかり時代が違ふんですもの』と言つた事があつた。すると母は大層機嫌を損はれた容子だつたが、しかし私は思つた、『藥は苦いとして、母はそれを飮まなければならんのだ』と。ところがさ、今度はいよいよこちとらにお鉢が廻つて來たといふものだ。若い奴等は言ふ、『貴君方は現代のお方ではない、さつさとお藥を召し上りませい』とさ。」――
 かう言つたところは、どうやらあの腑拔けのした喜光寺が言ひさうな口前らしい。ニコライ親爺にかうした愚痴をこぼさしたのは、あのバザロフといつた虚無主義者の新人であつた。ここではやがて、それにも劣らぬ愛想氣の無い『時』の流れであらう。ニコライが息子の言前に依ると、虚無主義は批評的見地から一切のものを視、どんな權威にもへこたれぬものだが、『時』ほど批評的であり、『時』ほど權威を顧みぬものが世に二つとあらうか。そのこつぴどい『時』の手に小突かれて、ひどく氣が滅入つて、よろよろになつてゐるあの喜光寺の屋根を見ると、しみじみと時代の嘆きといふものが味はへる。
 ニコライ親爺といつたら、どうかすると亡くなつた女房を思ひ出して、樂しかつた戀の思出に耽つてゐたといふが、あの喜光寺にはどんな夢があつたらうか。五月末の日は、じわじわと煎るやうに照りつける。その下でめまぐるしさうに、肩を露出《むきだ》しに乾ききつた古寺の容子は、まるで長い生活の重荷にへとへとに倦み疲れて、何處にでも腰を下すが早いか、もうこくりこくりと居睡りを爲始める耄碌爺の心持そつくりだ…………



底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「薄田泣菫全集 第八巻」創元社
   1939(昭和14)年刊行
初出:「新小説」
   1908(明治41)年10月
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年3月24日作成
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