きて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛《かわゆ》き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟《たた》りを据えての恐《おそれ》と苦しみである。今宵《こよい》の悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失《う》せて、求むれども遂《つい》に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司《つかさ》どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇《く》しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪《うしな》える。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂《ひさし》深き兜《かぶと》の奥より、高き櫓《やぐら》を見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡《う》せてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンは微《かす》かなる毛孔《けあな》の末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千|壺《こ》の香油を注いで、日にその膚《はだえ》を滑《なめら》かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来《きた》る期《ご》はなかろう。
 やがてわが部屋の戸帳《とばり》を開きて、エレーンは壁に釣《つ》る長き衣《きぬ》を取り出《いだ》す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜《よる》を呑《の》んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮《あざや》かである。エレーンは衣の領《えり》を右手《めて》につるして、暫《しば》らくは眩《まば》ゆきものと眺《なが》めたるが、やがて左に握る短刀を鞘《さや》ながら二、三度振る。からからと床《ゆか》に音さして、すわという間《ま》に閃《ひらめ》きは目を掠《かす》めて紅《くれない》深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭《てしょく》は、風に打たれて颯《さ》と消えた。外は片破月《かたわれづき》の空に更《ふ》けたり。
 右手《めて》に捧《ささ》ぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居《すまい》、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。
 聞くならくアーサー大王のギニヴィアを娶《めと》らんとして、心惑える折、居《い》ながらに世の成行《なりゆき》を知るマーリンは、首を掉《ふ》りて慶事を肯《がえん》んぜず。この女|後《のち》に思わぬ人を慕う事あり、娶る君に悔《くい》あらん。とひたすらに諫《いさ》めしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人[#「思わぬ人」に傍点]の誰《たれ》なるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人[#「思わぬ人」に傍点]の誰なるかを知りたる時、天《あめ》が下《した》に数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命《さだめ》に廻《めぐ》り合せたる我を恨み、このうれしき幸《さち》を享《う》けたる己《おの》れを悦《よろこ》びて、楽みと苦みの綯《ないまじ》りたる縄を断たんともせず、この年月《としつき》を経たり。心|疚《や》ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をも醸《かも》せと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃を棄《す》てず。ただ疑の積もりて証拠《あかし》と凝らん時――ギニヴィアの捕われて杭《くい》に焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。
 眠られぬ戸に何物かちょと障《さわ》った気合《けわい》である。枕を離るる頭《かしら》の、音する方《かた》に、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸《なきがら》に脈も通わず。静《しずか》である。
 再び障った音は、殆《ほと》んど敲《たた》いたというべくも高い。慥《たし》かに人ありと思い極《きわ》めたるランスロットは、やおら身を臥所《ふしど》に起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭《ろうそく》の火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方《かた》にまたたく。乙女の顔は翳《かざ》せる赤き袖の影に隠れている。面映《おもはゆ》きは灯火《ともしび》のみならず。
「この深き夜《よ》を……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――鼠《ねずみ》だに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。
 男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹《もみ》の衝立《ついたて》に、花よりも美くしき顔をかくす。常に勝《まさ
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