る事は天に懸《かか》る日といえども難《かた》い。活《い》ける世の影なればかく果《は》敢《か》なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳《か》けよりて思うさま鏡の外《ほか》なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪《のろ》いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐《きょくせき》せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦《う》めば山に遯《のが》るる心安さもあるべし。鏡の裏《うち》なる狭き宇宙の小さければとて、憂《う》き事の降りかかる十字の街《ちまた》に立ちて、行き交《か》う人に気を配る辛《つ》らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃《ばんけい》の乱れは永劫《えいごう》を極めて尽きざるを、渦|捲《ま》く中に頭《かしら》をも、手をも、足をも攫《さら》われて、行くわれの果《はて》は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台《うてな》に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆《あほう》の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助《たすけ》にて、よそながら窺《うかが》う世なり。活殺生死《かっさつしょうじ》の乾坤《けんこん》を定裏《じょうり》に拈出《ねんしゅつ》して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁《さわ》がして窓の外《そと》なる下界を見んとする。
鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄《くろがね》の黒きを磨《みが》いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑《かがみ》の霧を含みて、芙蓉《ふよう》に滴《した》たる音を聴《き》くとき、対《むか》える人の身の上に危うき事あり。※[#「(彡をつらぬいてたてぼう)/石」、第4水準2−82−32]然《けきぜん》と故《ゆえ》なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人|末期《まつご》の覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月《いくとしつき》の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝《あした》に向い夕《ゆうべ》に向い、日に向い月に向いて、厭《あ》くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞《おそれ》ありとは夢にだも知らず。湛然《たんぜん》として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗《えいろう》たる面《おもて》を過ぐる森羅《しんら》の影の、繽紛《ひんぷん》として去るあとは、太古の色なき境《さかい》をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空《たいくう》を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏《うち》に圧《お》し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍《そば》に坐りて、夜ごと日ごとの※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》を織る。ある時は明るき※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》を織り、ある時は暗き※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》を織る。
シャロットの女の投ぐる梭《ひ》の音を聴く者は、淋《さび》しき皐《おか》の上に立つ、高き台《うてな》の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代《よ》にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居《すまい》である。蔦《つた》鎖《とざ》す古き窓より洩《も》るる梭の音の、絶間《たえま》なき振子《しんし》の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静《しずか》なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝《まさ》る。恐る恐る高き台を見上げたる行人《こうじん》は耳を掩《おお》うて走る。
シャロットの女の織るは不断の※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《はた》である。草むらの萌草《もえぐさ》の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪《なみ》の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地《じ》に、燃ゆる焔《ほのお》の色にて十字架を描
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