えば、馬は何物にか躓《つまず》きて前足を折る。騎《の》るわれは鬣《たてがみ》をさかに扱《こ》いて前にのめる。戞《かつ》と打つは石の上と心得しに、われより先に斃《たお》れたる人の鎧《よろい》の袖なり」
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹は魂《たま》消《ぎ》ゆるほどの声に、椅子の端《はじ》を握る。椅子の足は折れたるにあらず。
「橋の袂《たもと》の柳の裏《うち》に、人住むとしも見えぬ庵室《あんしつ》あるを、試みに敲けば、世を逃《のが》れたる隠士の居《きょ》なり。幸いと冷たき人を担《かつ》ぎ入るる。兜《かぶと》を脱げば眼さえ氷りて……」
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを蘇《よみがえ》してか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。
「よみ返しはしたれ。よみにある人と択《えら》ぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如く、あらぬ事のみ口走る。あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草の香《かお》りも、煮えたる頭《かしら》には一点の涼気を吹かず。……」
「枕辺《まくらべ》にわれあらば」と少女《おとめ》は思う。
「一夜《いちや》の後《のち》たぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の眠《ねむり》覚めて、病む人の顔色の、今朝《けさ》如何《いかが》あらんと臥所《ふしど》を窺《うかが》えば――在《あ》らず。剣《つるぎ》の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い[#「罪はわれを追い」に傍点]、われは罪を追う[#「われは罪を追う」に傍点]とある」
「逃《のが》れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。茫々《ぼうぼう》と吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境は極《きわ》めがたければ、独《ひと》り帰り来ぬ。――隠士はいう、病《やまい》怠らで去る。かの人の身は危うし。狂いて走る方《かた》はカメロットなるべしと。うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれど、われは確《しか》と、さは
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