去《さん》ぬる騎士の闘技に足を痛めて今なお蓐《じょく》を離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合に傷《きずつ》きて、その創口《きずぐち》はまだ癒《い》えざれば、赤き血架は空《むな》しく壁に古りたり。これを翳《かざ》して思う如く人々を驚かし給え」
ランスロットは腕を扼《やく》して「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。
「次男ラヴェンは健気《けなげ》に見ゆる若者にてあるを、アーサー王の催《もよおし》にかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛の蹄《ひづめ》のあとに倶《ぐ》し連れよ。翌日《あす》を急げと彼に申し聞かせんほどに」
ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人の頬《ほお》に畳める皺《しわ》のうちには、嬉《うれ》しき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。
木に倚《よ》るは蔦《つた》、まつわりて幾世を離れず、宵《よい》に逢《あ》いて朝《あした》に分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。繊《ほそ》き身の寄り添わば、幹吹く嵐《あらし》に、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括《くく》る恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼《まぶた》に余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館《やかた》こそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐《あわ》れの胸に漲《みなぎ》るは、鎖《とざ》せる雲の自《おのずか》ら晴れて、麗《うらら》かなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋《うず》めて千里の外《ほか》に暖かき光りをひく。明かなる君が眉目《びもく》にはたと行き逢える今の思《おもい》は、坑《あな》を出でて天下の春風《はるかぜ》に吹かれたるが如きを――言葉さえ交《か》わさず、あすの別れとはつれなし。
燭《しょく》尽きて更《こう》を惜《おし》めども、更尽きて客は寝《い》ねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳《ひとみ》の奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力《つと》めたれど詮《せん》なし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏《うち》に潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。魂《たま》消《ぎ》える物《もの》の怪《け》の話におのの
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