顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴《き》く。聴きおわりたる横顔をまた真向《まむこう》に反《か》えして石段の下を鋭どき眼にて窺《うかが》う。濃《こま》やかに斑《ふ》を流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇《ばら》が暗きを洩《も》れて和《やわら》かき香《かお》りを放つ。君見よと宵《よい》に贈れる花輪のいつ摧《くだ》けたる名残《なごり》か。しばらくはわが足に纏《まつ》わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹《き》と立ち直りて、繊《ほそ》き手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩《まば》ゆき光り矢の如く向い側なる室《しつ》の中よりギニヴィアの頭《かしら》に戴《いただ》ける冠を照らす。輝けるは眉間《みけん》に中《あた》る金剛石ぞ。
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚《はば》かり、地を憚かる中に、身も世も入《い》らぬまで力の籠《こも》りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏《おそ》れず。
「ギニヴィア!」と応《こた》えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋《うず》めてまた捲《ま》き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬《ほお》の色は釣《つ》り合わず蒼白《あおじろ》い。
女は幕をひく手をつと放して内に入《い》る。裂目《さけめ》を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立《きわだ》ちて見える。左右に開く廻廊には円柱《まるばしら》の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。
「北の方《かた》なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉《まゆ》に晴れがたき雲の蟠《わだか》まりて、弱き笑《わらい》の強《し》いて憂《うれい》の裏《うち》より洩れ来《きた》る。
「贈りまつれる薔薇の香《か》に酔《え》いて」とのみにて男は高き窓より表の方《かた》を見やる。折からの五月である。館を繞《めぐ》りて緩《ゆる》く逝《ゆ》く江に千本の柳が明かに影を※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]《ひた》して、空に崩《くず》るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて木《こ》の間《ま》隠れに
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