チかく奇麗な所を台なしにしてしまいましたねえ、なに罪人《ざいにん》の落書だなんて当《あて》になったもんじゃありません、贋《にせ》もだいぶありまさあね」と澄《す》ましたものである。余は最後に美しい婦人に逢《あ》った事とその婦人が我々の知らない事やとうてい読めない字句をすらすら読んだ事などを不思議そうに話し出すと、主人は大に軽蔑《けいべつ》した口調《くちょう》で「そりゃ当り前でさあ、皆んなあすこへ行く時にゃ案内記を読んで出掛けるんでさあ、そのくらいの事を知ってたって何も驚くにゃあたらないでしょう、何すこぶる別嬪《べっぴん》だって?――倫敦にゃだいぶ別嬪がいますよ、少し気をつけないと険呑《けんのん》ですぜ」ととんだ所へ火の手が揚《あが》る。これで余の空想の後半がまた打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。
 それからは人と倫敦塔の話しをしない事にきめた。また再び見物に行かない事にきめた。
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 この篇は事実らしく書き流してあるが、実のところ過半《かはん》想像的の文字《もんじ》であるから、見る人はその心で読まれん事を希望する、塔の歴史に関して時々戯曲的に面白そうな事柄を撰《えら》んで綴《つづ》り込んで見たが、甘《うま》く行かんので所々不自然の痕迹《こんせき》が見えるのはやむをえない。そのうちエリザベス(エドワード四世の妃)が幽閉中の二王子に逢いに来る場と、二王子を殺した刺客《せっかく》の述懐《じゅっかい》の場は沙翁《さおう》の歴史劇リチャード三世のうちにもある。沙翁はクラレンス公爵の塔中で殺さるる場を写すには正筆《せいひつ》を用い、王子を絞殺《こうさつ》する模様をあらわすには仄筆《そくひつ》を使って、刺客の語を藉《か》り裏面からその様子を描出《びょうしゅつ》している。かつてこの劇を読んだとき、そこを大《おおい》に面白く感じた事があるから、今その趣向をそのまま用いて見た。しかし対話の内容周囲の光景等は無論余の空想から捏出《ねつしゅつ》したもので沙翁とは何らの関係もない。それから断頭吏《だんとうり》の歌をうたって斧《おの》を磨《と》ぐところについて一言《いちげん》しておくが、この趣向は全くエーンズウォースの「倫敦塔《ロンドンとう》」と云う小説から来たもので、余はこれに対して些少《さしょう》の創意をも要求する権利はない。エーンズウォースには斧《おの》の刃のこぼれたのをソルスベリ伯爵夫人を斬る時の出来事のように叙してある。余がこの書を読んだとき断頭場に用うる斧の刃のこぼれたのを首斬り役が磨《と》いでいる景色などはわずかに一二頁に足らぬところではあるが非常に面白いと感じた。のみならず磨ぎながら乱暴な歌を平気でうたっていると云う事が、同じく十五六分の所作ではあるが、全篇を活動せしむるに足《た》るほどの戯曲的出来事だと深く興味を覚えたので、今その趣向そのままを蹈襲《とうしゅう》したのである。但《ただ》し歌の意味も文句も、二吏の対話も、暗窖《あんこう》の光景もいっさい趣向以外の事は余の空想から成ったものである。ついでだからエーンズウォースが獄門役に歌わせた歌を紹介して置く。
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The axe was sharp, and heavy as lead,
As it touched the neck, off went the head!
          Whir―whir―whir―whir!
Queen Anne laid her white throat upon the block,
Quietly waiting the fatal shock;
The axe it severed it right in twain,
And so quick―so true―that she felt no pain.
          Whir―whir―whir―whir!
Salisbury's countess, she would not die
As a proud dame should―decorously.
Lifting my axe, I split her skull,
And the edge since then has been notched and dull.
          Whir―whir―whir―whir!
Queen Catherine Howard gave me a fee, ―
A chain of gold―to die easily:
And her costly present she did not rue,
For I touched her head, and away it flew!
          Whir―whir―whir―
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